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【インタビュー】東欧3カ国を渡り歩いた元海外組が、今だから明かした“人種差別”の真実

7/18(火) 21:34配信

footballista

Interview with
Yuki NAKAMURA
中村祐輝(元ジュビロ磐田FW)


今年2月、一人のサッカー選手が若くしてスパイクを脱いだ。元ジュビロ磐田の中村祐輝はルーマニアでプロデビューを果たし、東欧のスロバキア、チェコでプレーした。しかし、2012年にスロバキア2部のリマフスカ・ソバタで自チームのウルトラスやチームメイトから人種差別を受けてクラブを退団。その後は日本に戻ってプレーを続け、29歳で引退を決断。選手キャリアを終えた今の心境、そして多くを語ってこなかった人種差別騒動について語ってもらった。


インタビュー・文 高橋アオ



東欧へはスーツケース1つで
僕のキャリアでも入りやすい国ということで『とりあえず行ってくれ』って言われて行ったのがルーマニアでした。


──最初に、中村さん現役引退お疲れ様でした。「人種差別」報道で注目を集めましたが、中村さんのことを知らない読者の方もいると思います。まずはサッカーを始めたきっかけを教えてください。
「小さい頃は体が弱くて、よく風邪を引いていたんです。それで親から『体を強くするためにサッカーをやれ』って言われて、家の近くにある少年団に入ったのがきっかけでした。そういう感じだったので、最初はあまり練習をしていませんでした。でも、4年生ぐらいから急に熱が入り出して、ずっとボールを蹴っていましたね。その後は中学から高校、大学とサッカーを続けていくんですけど、本当は高校卒業後にプロになりたかったんです。高校3年の時に(浦和)レッズとジュビロ(磐田)で練習参加させてもらったんですが、当時はレッズが一番強い時で、やってみて『これはプロになれないなぁ』と痛感して。それで大学に進もうと決めました」


──国士舘大学在学中にアルゼンチンへサッカー留学していますよね。どうして海外に行こうと思ったのでしょうか?
「小学生の時は韓国に遠征しましたし、(清水)エスパルスのジュニアユースに入っていた中学生の時にはブラジルに3週間弱行きました。高校ではユース代表に選んでもらってオランダ遠征したり、県選抜でイタリアやスペインに行ったりもしていて、小さい頃から海外のサッカーに触れることが多かったので海外への興味はあったんです。それで大学に入って、1年生から試合に出してもらってはいたんですが、コンスタントにレギュラーで出ていたわけではなくて。そんな状況で進路を考える時、周りはみんなプロに行きたいと言っていた中で、僕だけが海外に行きたいと考えていて、知り合いを通じて紹介してもらって大学4年になる前の春に行きました」


──昔から海外サッカーに触れることが多かったというお話ですが、テレビで見ることも多かったですか?
「家ではJリーグよりもセリエAとかを観ていました。その時はユベントス中心に観ていて、FWがトレゼゲとデルピエーロで、その後イブラヒモビッチが入ってきてMFにもカモラネージやネドベドがいた頃のセリエAは印象に残っています」


――留学先にアルゼンチンを選んだ理由は?
「アルゼンチンを選んだのは、いいFWがたくさんいるから。それだけでしたね(笑)。当時はテベスやクレスポ、バティ(バティストゥータ)がいて、今もいい選手がたくさんいます。みんな自分のスタイル、点を獲る形がちゃんとあって、しっかり点を決めますよね。ブラジルは中学の時に行っていたのと、どちらかと言うと魅せる選手が多いイメージだったので考えませんでした」


──実際に行ってみて、どんなことを感じましたか?
「僕が行ったのは下部リーグのクラブで、3~4週間の練習参加だったので公式戦には出られませんし、プレシーズン中でシーズンに向けて体を作る時期ではあったんですが楽しかったですよ。技術的には日本と海外の選手を比べる時によく言われるように、日本人の方がボールの扱いは上手いと感じました。ただ、やっぱり向こうの人は実戦になると手の使い方とか駆け引きが上手いなと思いましたね。環境面は結構酷かったです(笑)。クラブハウスはありましたけどボロボロで、日本の大学の方がよっぽどしっかりしていましたね」


──そして、大学卒業後にルーマニアへと渡ることになります。なぜルーマニアだったのでしょうか?
「アルゼンチンから戻って来て、プロを目指している周りのみんなはJクラブの練習に参加していたんですが、僕は行く気になれませんでした。すんなりJクラブに入れればいいですけどそれも簡単じゃないですし、海外に行きたいと思っていたこともあったのでエージェントの人を紹介してもらったんです。そのエージェントに、代表経験もプロ経験もない僕のキャリアでも入りやすい国ということで『とりあえず行ってくれ』って言われて行ったのがルーマニアでした。持ち物はスーツケース1個でした(笑)。今では結構いますけど、当時A代表の経験もなくJリーグも経ずに海外のプロクラブに行ったのはタカくん(ルーマニア1部・アストラ所属の瀬戸貴幸選手)くらいだったんじゃないかと思います」



3カ国を渡り歩きたどり着いた1部の舞台
身をもって感じたのが、海外ではサッカーの評価の基準が全然違うってこと


──ルーマニアに渡り、2部のCFRクライオバに加入します。プロキャリアをスタートが海外のリーグとなったわけですが、いろいろと戸惑うこともあったのではないでしょうか?
「言葉も通じない中にポンっと入ってプレーするっていうのはやっぱり凄く難しかったですね。最初はパスなんか全然回ってきませんでした。それに環境もあまり良くありませんでした。歴史がある分、施設も古くて。いちおうシャワー、お風呂、ロッカーはありましたけど、高校の部室みたいな感じでした(笑)。それに給料の遅配も当たり前で、オンタイムで払われたことはなかったですね」


──リーグのレベルはどうだったのでしょうか?
「よく聞かれるんですが、何て言えいばいいのかな……みんな自分が点を取って、自分が活躍して上に行くっていう気持ちが強いんですよね。それでチームとして戦えるかって言ったら……。チームとしては、J2の下の方のクラブとかJ3のチームでも勝てちゃうかもしれないです。

 チームはそんな感じだったんですが、監督をしてたのがベニテスが率いていたオサスサでCLに出てゴールも決めたFWのジェリー・ガネ(リオネル・ガネ)だったんです。彼は監督になったばかりでまだ動けたので、一緒にプレーしたりしながらシュートの打ち方とか手の使い方とかいろいろと教えてもらいました。監督としてはちょっと……でしたけど(笑)」


──環境的には厳しかったけれど技術的に学ぶことができ、気力の面でも充実していた?
「いや、精神的にはキツかったですね。メンタル的にはこの時に相当鍛えられました。大学生の時もいろいろと苦労したって話しましたが、海外で一人でというのはやっぱりね。バスで片道20時間ぐらい移動して、(出場)5分くらいで帰るとかも普通にありましたから」


──CFRクライオバで1年間プレーした後、スロバキア2部のFKボトゥバ・モルダバに移籍しました。同じルーマニアではなかったのはなぜだったのでしょうか?
「ちょっとルーマニアが嫌になり過ぎて(笑)。チームとの契約はもう1年あって残るという選択もあったんですが、何とか出たいと思って自分で動いて、新しいエージェントを探してスロバキアに入りました。プレーしたのは3、4カ月だったんですが10数試合で3、4点ぐらい取って。そうしたらチェコ人のエージェントから『チェコに連れて行ってやるよ』と声をかけられたんです」


──スロバキアでのプレーが代理人の目に留まり、移籍したのはチェコのFKビクトリア・ジジュコフ。自身初の1部リーグへのステップアップを果たしました。
「残留争いまっただ中の下位チームではあったんですが、初めてトップリーグに上がれてうれしかったですし、ホームタウンがプラハだったので生活面も暮らしやすくなりました。サッカーに関しては、チェコは本当にもうフィジカルです。CBは190cm以上ばかり。僕はスロバキア2部からチェコ1部に行ったんで、やっぱり全然違いました。特に首位だったプルゼニはCLでミランと引き分けたりしていて、対戦しましたけど本当に強かったです。それから、隣のドイツから毎試合のようにスカウトが来ていると聞かされていました。お目当ては対戦相手のプルゼニやスパルタ・プラハ、スラビア・プラハの選手だったみたいですが、みんなドイツに行きたいという想いを強く持ってプレーしていましたね。自分としても楽しかったです」


──フィジカルが求められる環境で、プレー面で他に感じたことはありますか?
「これはチェコに限らずなんですが、身をもって感じたのが海外ではサッカーの評価の基準が全然違うってことですね。僕はずっとCFをやってきたんですが、チェコではウイングで起用されたりしました。その時はまだ若かったので相手を抜けたりもしましたけど、スピードや突破力を全面に押し出したプレースタイルでやって来たわけではなかったので戸惑いました」

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最終更新:7/20(木) 20:52
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