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荻野洋一の『甘き人生』評:巨匠マルコ・ベロッキオが描く“苦い”夢

7/19(水) 11:00配信

リアルサウンド

 イタリアの異才マルコ・ベロッキオの最新作『甘き人生』の原題は “Fai bei sogni(ファイ・ベイ・ソッニ)” で、イタリア語で「良い夢を」という意味である。そしてそれは、9歳の主人公マッシモが寝静まったところに母親がやって来て、少年の耳元でささやく最後の言葉となる。映画の最初でマッシモとママの幸福なシーンがいくつも出てきて、観客は、その絵に描いたような幸福の描写ゆえにかえって、このあと自分たちが直面するのは幸福の喪失、母と子の別ればかりだろうと直感する。

『甘き人生』作品画像

 その直感は、先ほどの「良い夢を」という母親のささやきのあとのシーンですぐに図星となる。激しい物音と父親の悲鳴によって起こされた少年は、ママの急死という事件に直面する。どうやら母親は自殺したらしい。死因は少年にははっきりと説明されず、「心筋梗塞」とされる。少年にとっては「良い夢を」どころか悪夢である。死ぬ直前にママは、悪い冗談を息子に飛ばしたのだろうか?

 筆者が取材でたびたび訪れるスペインもそうだけれども、イタリアをふくむラテン諸国はおおむねマザコン社会だという。「なんといってもママの作るパエーリャはどんな有名レストランよりもおいしい」。マドリードやバレンシアでもよく聞いてきた言葉だ。そんなことをいい歳をした大人が平気で口にしてはばからないのが、ラテン社会である。しかし、本作の主人公が住む北西部トリノは、イタリア的というよりはピエモンテ的としか言いようがない独特な文化が花開いた都市である。観客は、主人公の住むアパートメントにナポレオンの胸像がいくつも並んでいることに気づくだろう。どうやら主人公の父親が蒐集しているものらしいが、なぜナポレオンなのか? 端的に言ってトリノを州都とするピエモンテ州はフランス文化圏に属してもいるからである。主人公マッシモが大人になってから記者として勤めることになる新聞「La Stampa(ラ・スタンパ)」は、19世紀なかばにトリノで創刊された。主人公はそのローマ支局に勤務し、戦禍のボスニア・ヘルツェゴビナに赴任したりもするけれども、トリノという母性空間のヘソの緒から切り離されたわけではない。

 父親の書斎で理科の宿題をこなすマッシモが、万有引力の法則を唱えながら、父親の蒐集するナポレオンの胸像をベランダから下に落とす。マッシモは聞き分けのない子どもとして育つが、誰もマッシモを排除しようとしない。マッシモが母親の不測の死から立ち直っていない悲劇の子として、街の人々から了解されているからだ。ただし母の死の真相を彼に告げないのは「子どもがかわいそう」というだけの理由ではないと、『イタリア現代史』(中公新書)の著者・伊藤武氏は映画プログラムで解説している。「映画の中で母の葬儀は、教会ではなく家で行われていました。当時“自殺”は社会的・宗教的にタブーで、教会での葬儀が認められないことも珍しくありません」。マッシモ自身もまた、真相を積極的に詮索しないままに、父の語る「心筋梗塞」説を信じ、あるいは「ママはまだ生きている、早く目を覚まして」などと口走りながら、現実よりも空想の中に自閉していき、学校の友やその父兄には、母親がニューヨーク在住だと嘘をつき通すことになるだろう。

 父親はマッシモを、ママの亡霊との口唇的な空想から遠ざけるため、ためしにサッカー観戦へ連れていく。いや、そもそもパパ=ママ=ボクが住んでいるこのアパートメントじたいがスタジアムの目の前にあるのだ。スタディオ・ベニート・ムッソリーニ。1934年ワールドカップ開催のために独裁者ムッソリーニが建設したスタジアムである。戦後はスタディオ・コムナーレ(市営競技場という意味)と改名し、2006年のトリノ冬季オリンピックのメイン会場として再整備されて、現在はスタディオ・オリンピコ(五輪競技場という意味)となった。サッカーはイタリアで「カルチョ」と呼ばれるが、カルチョこそ、イタリアの少年たちが母親の勢力圏から離脱するための便利な装置として機能してきた。

 興味深いのは、父親がマッシモを連れていくのが、トリノに本拠地を置く名門クラブ、ユヴェントスの試合ではなく、エンジ色のユニフォームが目を引くトリノFCの試合であるという点である。ユヴェントスは数多くのタイトルに輝き、時に「イタリアの恋人」の愛称で慕われる。そんなイタリアの象徴的なクラブではなく、セリエAとセリエBを行ったり来たりしつつも地元トリノ市内ではユヴェントス以上の支持を受けるトリノFC(愛称「トロ」)のエンジ色が、母親に変わって主人公マッシモの守護神となる。マッシモは長じてサッカー記者となり、文才が買われて「La Stampa(ラ・スタンパ)」に雇われる。彼はイタリア人である以前に、どこまでもトリノ人であり、ピエモンテ人である。

 また指摘しなければならないのは、トリノFCは1940年代の全盛期に飛行機の墜落事故で監督と選手をいっきに失い、そのシーズンこそ残り試合が少なかったためセリエAで優勝を果たすものの、その後は強豪に戻ることはなかったという点である。年老いた父親と記者となったマッシモが久しぶりに再会するのは、墜落事故で亡くなった名選手たちを顕彰する儀式においてである。墜落の記憶が共有されるという事実から、ここでも母の死因もまた「心筋梗塞」などではなく、墜落によるもの、つまりベランダからの飛び降り自殺であることは匂いすぎるくらいに匂わされる。それでも死因に気づこうとしないマッシモの精神がどれほど自閉しているか、そこが問題だ。

 墜落する。落下する。この垂直運動が、画面内にたびたび散見される。先にも述べたように、少年時代のマッシモはナポレオンの胸像をベランダから落として騒ぎを起こすのだし、サッカーボールを室内でリフティングしていて、玄関の宗教的なレリーフを落として割ってしまう。記者となったマッシモがローマ市内で出会う女性精神科医エリーザが飛び込み台からダイビングする光景を、マッシモはプールサイドでなすすべなく見つめるしかない。

 ママの投身自殺、トリノFCの全盛期(いわゆる「グランデ・トリノ」)の記憶が垂直性への恐怖に結びつき、マッシモの空想は恐怖映画をママといっしょに見た記憶に結びつける。『カリガリ博士』、『キャット・ピープル』、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のホラー的イメージが散りばめられ、彼の守護神はつねに怪人ベルファゴールだった。ベルファゴールは彼の精神の奥深くに滞留している。彼は垂直運動が突きつける恐怖への対抗措置として、滞留を心ならずも選ぶ。1999年に父親が死に、アパートメントの売却を決心した彼は、依然として部屋にナポレオンの胸像コレクションやら、母親が切りぬいたスター写真のスクラップ帳やらが滞留していることに気づいて、呆然となる。落下を忘れるために、物はひたすら溜まっていくのだ。記者である彼が読者投稿への回答者として書いた返信記事が市民の感動を呼び、彼のデスクの上には新聞読者からのファンレターがうずたかく溜まっていく。

 大人になったマッシモがアパートメントに来たとき、ベランダの向こうには依然としてスタジアムが見える。しかし当時(1990年代)、スタジアムはすでに使用されなくなって数年が経過し、廃墟としての静かな時間を過ごしていたことを知っておくべきだろう。1990年のイタリアワールドカップ以降、ユヴェントスもトリノFCも、ワールドカップのために郊外に新築された7万人収容のスタディオ・デッレ・アルピに移転していた。スタジアムという巨大建造物が打ち捨てられたまま、すぐそこに廃墟として現前し続けたという現実こそ、主人公を取りまく滞留の象徴だと言えるだろう。ちなみに、交通の便の悪さや冬の寒さ、霧の濃さで非常に不評だったデッレ・アルピはたった15年しか使用されずに取り壊され、トリノFCは2006年、主人公宅の目の前のスタディオ・オリンピコ(かつてのスタディオ・ベニート・ムッソリーニ)に戻って、ホームゲームを主催している。

 「良い夢を」と息子の耳元でささやいて逝ったあの晩の母親の心情を、愛する我が子を案じながらも自ら命を絶った母親の無念を、息子のマッシモが真に理解する日は来るのだろうか? 彼は母の不在という精神的危機と戦い続け、それを克服してきた。しかし、母親から棄てられたという観念からはついに脱却できていないように思える。反抗的な態度をとる少年時代のマッシモに、カトリック系私立学校の教師である神父が諭すように語る「君に必要なのは“もしも”ではない。“にもかかわらず”だ」という言葉は、すべての映画観客の胸を打つだろう。神父は次のように続ける。「自分が不幸な目に遭ったにもかかわらず、自分の母が自分を置いて死んだにもかかわらず……」と。その先の「……」を埋めるのは君のなすべきことだと。スタディオ・ベニート・ムッソリーニの観客席にギュウギュウ詰めに埋まってチャントを唱和するサポーターという経験をしたことを手始めに、マッシモは空虚を物という物で埋めてきた。そうしてかろうじて孤独を手なずけて生きる術を体得していったのである。

 「良い夢を」という、死の直前に母親がかけた呪文と、これからもずっと彼は対峙し続けるだろう「良い夢」と悪夢はほとんど同じものではないかという疑念が、長年にわたる彼の偽らざる気持ちだと思う。アパートメントの残留物を見て呆然となる主人公は、あの幸福だった9歳のボクに戻っていく。ボクとママはアパートメントで鬼ごっこしている。数を数え終わったボクはママを探すけれど、ママが見当たらない。不安になったボクは思わず「もう楽しくなくなっちゃったよ、ママどこなの?」と訴える。……母親はクローゼットの段ボールの中で息をひそめて、息子の泣きべそを聞いている。クローゼットの中にはまだまだほじくり出せばキリがない滞留物が溜まっていることだろう。マッシモは、その滞留夢という牢獄に囚われている。しかし、そこから真に脱却できる人、あるいはしたいと心から考える人は、どれほどいるのだろうか?

荻野洋一

最終更新:7/19(水) 11:00
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