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政治に翻弄されたサッカー人生 元Jリーグ監督アルディレスが歩んだ数奇な運命

7/24(月) 19:55配信

THE ANSWER

アルディレスは軍事政権移行で“絶対命題”を背負う中、地元開催のW杯で優勝

「アルゼンチンでサッカーは決してNO1のスポーツではない。唯一のスポーツなんだ」――オズワルド・アルディレス

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 1978年、アルゼンチンで初めてワールドカップが開催された。

 アルディレスが初めてアルゼンチン代表に選ばれたのが、その3年前のこと。そして翌3月、クーデターが起きて、アルゼンチンは軍事政権に移行する。冒頭の言葉の通り、アルゼンチンでサッカーは、そのまま国民のプライドと同等の意味を持つ。しかも軍事政権が誕生したため、地元開催の大会は優勝が絶対の命題となった。

「代表チームが勝てば、政権の評価が高まる。だから代表チームの勝利は最優先事項だった。移動の飛行機、滞在するホテルや食事は、すべて最高級のものが用意された。ワールドカップが開催された1978年になると、代表チームはずっと合宿続きだったので、メンバーは誰もリーグ戦でプレーしていない。私が所属するウラカンは、1976年にリーグ制覇をしているが、代表に5人も取られていたので、78年は2部落ち寸前だった」

 このワールドカップでアルゼンチン代表選手たちは、他人の人生どころか、政権も含めて国民すべての命運を背負って戦う重圧を感じていたに違いない。

「優勝した後は、(ホルヘ・ラファエル・)ビデラ大統領が開催するレセプションに招かれ、メンバー全員に銀製のシガレットケースがプレゼントされた。とてもサッカー選手に相応しい贈り物だとは思えなかったけどね」

プレーする英国と母国の間でフォークランド戦争が勃発「人生で最悪の時だった」

 Jリーグでも清水エスパルス、横浜F・マリノス、東京ヴェルディ、FC町田ゼルビアで監督の経験を持つアルディレスは、裕福な家庭で育ち文武両道を目指す珍しいタイプだった。

「父が弁護士で、中流の上くらいの家庭だった。でも、私は敢えてスラム街に行ってサッカーをした。そこは警察も入りたくないような危険な場所だったが、サッカーが上手い私が危害を受けることはなかった。その時の仲間がみんな代表やプロになっていったよ」

 17歳になり、1部リーグでプレーをするようになると父の年収に追いついたが、それでも大学へ進み弁護士の資格を取ろうとした。

「サッカーができるのは、せいぜい30歳代半ばまでだからね。私は大学の成績も良かったが、サッカーも優秀だった。どちらも優秀なレベルに到達すると、やはりどちらかを優先する必要が出て来る。実際に代表に選ばれてからは、勉強をする時間を確保することができなくなった」

 ワールドカップを制した後は、イングランドで初のアルゼンチン出身プレーヤーとして大活躍するが、英国と母国の間でフォークランド戦争が勃発。所属したトットナム・ホットスパーのホーム、ホワイトハートレーンには「オジーがいてくれるなら、フォークランドなんかくれてやれ」と垂れ幕が掲げられた。

「私が育った国と、私が愛する国が戦った。人生で最悪の時だった」

 エリート中のエリートだったアルディレスだが、スラム街に飛び出し、欧州へ渡り、やがて日本と、世界を飛び回り数寄な人生を歩むことになった。

◇加部究(かべ・きわむ)

 1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

加部究●文 text by Kiwamu Kabe

最終更新:7/24(月) 20:46
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