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【文庫双六】老父へ誠実に尽くす幸田文の真摯さ――梯久美子

7/25(火) 11:30配信

Book Bang

 幸田露伴が死去したのは、ちょうど70年前、昭和22年の7月である。終戦後の不自由な日々を露伴は病床で過ごしたが、身の回りの面倒を見、最期を看取ったのが、離婚して実家に戻ってきていた次女の文だった。

『父・こんなこと』に収録された「父―その死―」は死にゆく父の姿を見つめた作品で、これが作家・幸田文の実質的なデビュー作となった。その冒頭にこうある。

〈なんにしても、ひどい暑さだった。それに雨というものが降らなかった。あの年の関東のあの暑さは、焦土の暑さだったと云うよりほかないものだと、私はいまも思っている〉

 猛暑の中、寝たきりの父。高い美意識と贅沢な舌を持ち、誰よりも濃やかな心遣いを必要とする人なのに、何もかもが不足し、食べ物も着る物も、あちこち奔走しなければ手に入らない。

 文が少女時代から父によって生活技術と美意識を叩き込まれたのは有名な話だが、それらをここぞとばかりに駆使し、誠実すぎるほど誠実に尽くす姿に打たれる。私も数年前に老父を亡くしたが、この人は女一人でここまでのことをしたのかと、読み返すたびにため息が出る。

 戦後に移り住んだ千葉県市川市の家で、露伴、文、文の娘の三人暮らし。芸術院会員で文化勲章も受けていた露伴だが、地元の人たちはそんなことは知らず、転入手続きをした事務所で、一家の稼ぎ手が「八十のじいさん」であることに唖然とされる。

 一方では新聞で露伴の日常が報じられ、さまざまな人が訪れてくる。その中には〈ちょいと見舞いに来、親切な忠告やら行きとどいた世話やらをしゃべって帰る〉人もいる。病人の心を乱し、家族の仕事を増やして満足げな顔で帰っていく人たちの自分勝手で偽善的な姿もしっかり書き留められていて、家族を看取った経験のある人なら大いに頷くだろう。作品の中で「いい人」のふりをしないところが、私が幸田文を好きな理由のひとつである。

[レビュアー]梯久美子(ノンフィクション作家)
かけはし・くみこ

新潮社 週刊新潮 2017年7月20日文月増大号 掲載

新潮社

最終更新:7/25(火) 11:30
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