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文豪・永井荷風も通い詰めた「浅草ロック座」の70年史

7/27(木) 11:00配信

NEWS ポストセブン

 1945年3月、大空襲によって東京・下町は一面焼け野原となった。そのわずか2年余り後の1947年8月、戦後復興も緒についたばかりの浅草で、現存する最古のストリップ劇場・ロック座が産声を上げた。以来70年、荒波を乗り越え今も多くのファンを集める。

 劇場の名付け親は、宇都宮で映画館を経営していたロック座初代社長・草野稲穂。当初、浅草六区にあった映画館の再建を託された草野だったが、旧知の東宝社長・秦豊吉の「時代はストリップだ」のひと言で方針を変更、「六区(ろっく)だからロック座」と名を決めた。

 かけそば一杯が15円の時代、入場券は70円と安くはなかったが、入口には長蛇の列ができた。

 その中に『断腸亭日乗』で知られる文豪・永井荷風の姿もあった。荷風はやってくると楽屋に直行、踊り子相手に雑談に興じ、ショーが始まると客席ではなく舞台の袖から眺めた。1948年頃から文化勲章を受章する1952年まで通いつめた。

「その後、ストリップはレビューの要素を取り入れた豪勢な出し物と関西系に代表される露出度の高いショーの2極化が進み、ロック座は日舞のショーにコントを挟むスタイルで人気を得ました」(ロック座・齋藤恒久現会長)

 浅草はストリップ全盛期を迎え、劇場は12軒を数えた。目の肥えた常連客に揉まれ、渥美清や萩本欽一、坂上二郎、ビートたけしをはじめ、多くの喜劇人を輩出、ジプシー・ローズや一条さゆりなど人気ダンサーを次々と世に送り出した。

「1981年、映画『白日夢』で話題になった愛染恭子の出演が最大のヒットで、145人収容の劇場に1日最高1400人を記録しました」(齋藤会長)

 だが、1970年代に入ると逆風が吹き始める。ピンク映画や日活ロマンポルノ、新たな風俗業の勃興によってストリップ人気は衰退した。

 経営危機の瀬戸際に立たされたロック座を救ったのは、1972年に経営権を引き継いだ、齋藤会長の母にして現役の人気ストリッパーだった齋藤智恵子。40年以上の付き合いだった女優・浅香光代が語る。

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