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もし浦島太郎が竜宮城に行ってなかったら?

7/27(木) 16:11配信

日経BizGate

豪華な接待は必要なものだったのか

 前回の記事「亀を救った浦島太郎はなぜ不幸になったか」で、浦島太郎が子供たちに小銭を渡して亀を解放させたことについて、その亀は救われたかもしれないが、それによって将来より多くの亀が被害にあうかもしれないと書いた。つまり、太郎のしたことが果たして善行だったのかどうかはっきりしないということだった。

 そこで、自分のしもべの命を救ってくれた恩人とはいえ、それに対する竜宮での歓待が、度が過ぎているように見えることに着目したい。そもそも、亀たちが直接太郎にサービスして恩返しするのではなく、乙姫をはじめ竜宮城に総動員をかけて歓待するというのはやりすぎではないか。

 しかも、昔話では教育上不適切な描写が省略される傾向があることを勘案すれば、太郎が実際に受けたサービスの内容は、亀を助けてもらったお礼としては過剰ともいえるものだったに違いない。身の程をわきまえずいい気になって毎日はしゃぐ太郎に、竜宮の接待役は笑顔で接しながらも苦々しい思いでいたはずである。

 バブルの時代に、大した根拠もなく、ばら色の将来を信じて楽しく踊った私たちに罰があたったのと同様に、受ける筋合いのものではない豪華な接待を、あたかも当然のこととして受けた人が、最後には不幸になるというのであれば話としてそれなりにつじつまが合う。してみると、理屈の通らない都合のよすぎる話に対して、自分の能力や業績を過度に高く評価して自分を納得させ、あまつさえそれにのって自分を見失うようなことを戒めるものだと、浦島太郎を解釈することができそうである。

 この解釈はたいへん私の気に入るところである。しかし他方で、生物の生き死ににかかわることを、豪華なもてなしに値すると考えた太郎を責めるのは、少し気の毒な気もする。

 発想を転換すれば、太郎は罰を受けてはおらず、むしろ善行はきちんと報われているという考え方もできる。

 たとえば、太宰治の『お伽草紙』では、物語が奇妙に感じられるのは、太郎がおじいさんになることを不幸だとみなすからだが、本当に不幸なのかどうかはわからないと示唆している。彼は「気の毒だ、馬鹿だ、などといふのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつたのだ」と分析している。たしかに、老いることは一般に必ずしも不幸ではないはずだ。しかも、父母も知人もいなくなってしまった世界に舞い戻った太郎にとっては、老いることは喜びであったに違いない。

 また、太郎が報われなかったように見えるのは、太郎の帰郷後の部分だけを取り出して評価しようとするからだとも考えられる。竜宮での夢のような日々そのものは、とうてい悲劇ではあり得ない。私だって、機会さえあればあやかりたい。

 亀を助けた太郎が恵まれたのか、それとも不幸な運命を背負わされたのかは、両者を合わせて総合的に判断されなければならない。さすれば太郎の竜宮体験を正当に評価するためには、太郎が失ったもの、すなわち、もし太郎が竜宮に行かなかったら何が起こったのかということを考えなければならない。

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最終更新:7/27(木) 16:11
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