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滝口悠生『茄子の輝き』 はかなくも絶品の作品集

7/27(木) 11:00配信

Book Bang

 自分も人も物も、記憶の中にしか存在しないのではないか。

 滝口悠生の小説には、そう思わされるものがしばしばある。ある男の二十代から三十代にかけての十年ほどを綴った連作短編集『茄子の輝き』でも、語り手の「私」は「今」「ここ」のどこにもいない。各章は日記をもとに、数年前、高田馬場にある小さなマニュアル制作会社に勤めていた頃のこまごまとした回想だったり(「お茶の時間」「茄子の輝き」)、十年前、二泊三日で島根を訪れた新婚旅行のなんでもない話だったり(「わすれない顔」)、結婚前に元妻の伊知子と義父母で会津若松へ行ったときの断片的な記憶だったり(「茄子の輝き」)。

 そもそも、「私」は妻に去られて以来、時間を失くしているようだ。最初の一年ぐらいは植物の栽培にわずかな生き甲斐を見出した。その頃、おかっぱ頭の「千絵ちゃん」が入社してきて、今度は彼女が生きるよすがとなった。しかし大好きな千絵ちゃんと飲みにいっても、後々覚えているのは、彼女の曲げた肘の内側に箸を差し込んだこと、鮮やかな紫色に輝く茄子の揚げ浸しと薄くかかれた鰹節とすりおろした生姜、自分が千絵ちゃんの舌の上でほぐれる茄子の実になった、そんなこと(妄想)しかない。

「私」は最近もアパートで元妻の写真を毎晩ながめては、ビールで酔いつぶれる。語り手も読者も、「こんなことをしている夜がこの十年の間に何日も何日もあって、今がいつなのかよくわからなくなる」。

 島根の宿の洗面所で伊知子のほうに振り向き、「明日を楽しみに考えている」といった「私」は一体いつの「私」だろう。「私」は、最近飲み屋でまた別な女性と知り合うが、それを思いだしている「私」はいつの時間にいるのだろう。

「現在」とは、幻の概念にすぎない。物も人も本も、見た端、会った端、読んだ端から記憶に転じてしまうのだ。はかなくも絶品の作品集。

[レビュアー]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

新潮社 週刊新潮 2017年7月27日号 掲載

新潮社

最終更新:7/27(木) 11:00
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