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亀田製菓社長は元「匿名課長」 バブル全盛の1990年に海外で何をやっていた?

7/29(土) 17:10配信

NIKKEI STYLE

■亀田製菓の佐藤勇社長(62)は1976年に入社後、生産設備の開発や設計を担う施設課に配属される。

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 当時は米菓の販売が右肩上がり。社内では米菓の生産設備の導入が相次いでいました。施設課の業務時間は午前8時から午後5時でしたが、定時で帰れたのは研修期間中だけ。新たに導入する機械設備の試運転を土日にするため、休みもなかなか取れませんでした。「すごい会社に入ったな。こんな会社辞めよう」というのが率直な感想でした。

 施設課設備部門の配属でしたが、学生時代から勉強していた知的財産権に興味を持っていました。知財関連の知識を教えてもらうために研究開発の部署によく出入りしていましたが、設備部門の上司からするとおもしろくないわけです。「組織というものがわかってない」とよく怒られました。

 ただ当時の亀田製菓は米菓の製法に関する特許は取得していましたが、米菓の製造機械に関する特許はこれからでした。製造機械の特許を積極的に出願していくのは、非常におもしろい仕事でした。

■78年、生産設備導入のために渡米。初の海外出張を経験した。

 現在も販売している人気ブランド「白い風船」を企画していた時で、クリームを米菓で挟む製造設備を仕入れるためにシカゴに出かけました。その後も生産設備を調達するために何度も海外出張を経験しました。例えば、米菓を乾燥させるのに適しているマカロニの生産設備を購入しにイタリアへ出向いたこともあります。業績好調で会社全体に勢いがあり、様々な機械をどんどんスクラップ・アンド・ビルドしていったのです。

■84年に社長室へ異動。創業者の古泉栄治氏から創業の精神などを学ぶ。

 社長室への異動は全く希望していないし嫌でした。古泉さんは当時、会長でした。机の上にそろばんがあり、会長室に入ると個別事業について「なぜうまくいかないのか」と質問される。適当に答えると「あんたの言っていることは理解できない」ととがめられました。ごまかせない人でしたが、創業者からじかに学べたのは貴重な経験でした。

 社長室を経て、経営企画室では海外事業に取り組みました。90年に課長に昇進しましたが、同業他社に海外事業を進めていることを知られないよう、肩書は経営企画室調査課課長でした。進出先の市場調査などをするのですが、業務内容を伏せた匿名担当課長です。「調査課では何をしているのか」と名刺交換のたびに聞かれました。

 96年にアジアで初の現地生産となるベトナムでの合弁事業をまとめ上げ、合弁企業の第一副社長として赴任することが決まりました。経済成長が続くベトナムへの進出に期待は大きかったのですが、現地では会社人生で最大の失敗をすることになります。

【あのころ】 亀田製菓は1975年に売上高が163億円となり国内米菓企業で首位に立つ。76年には新潟県白根市(現新潟市)で白根工場が稼働したほか、現在の主力ブランド「ハッピーターン」を発売。積極投資で最大手の地位を盤石にしていった。
 ※後編「失敗でクビ覚悟も『まさか』の昇格、妻や元上司リストラする立場に」は下の【関連記事】からお読みいただけます
[日本経済新聞朝刊2016年12月27日付の記事を一部再構成]

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最終更新:7/29(土) 17:10
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