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「残堀」「恩方」「廿里町」…難読地名で読む東京多摩 

7/30(日) 9:00配信

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実に東京都人口の3分の1、420万人が住む多摩地域。370万人の静岡県(日本第10位)よりも多い多摩は歴史の宝庫であった。江戸文化を中心に多方面に造詣の深い著者・中江克己が多摩の歴史や地名の由来を紹介する。

「残堀」と「恩方」

 多摩にも難読地名が多い。たとえば、武蔵村山市の「残堀」という地名。なんと読めばいいのか、一瞬迷ってしまうが、これはそのまま「ざんぼり」と読む。

 もともとは三ツ村のうちの小字の一つだった。町名は、近くを流れる残堀川に由来するが、昭和56年(1981) 、新たな町が誕生したとき、小字が地名に採用された。

 残堀川の水源は、隣の瑞穂町にある狭山池。もっとも、この川は古くは蛇掘川と称した。あるとき、蛇喰治衛門が小さな蛇に食いつかれ、思わず逆に蛇を噛み切ったところ、大蛇に変身した。蛇堀川の名称は、この伝説から生じたのだという。

 大雨で川の水があふれ出し、岸を破壊しながら流れる様子が、大蛇が暴れている姿に見えたのかもしれない、と推測する人もいる。その後、いつしか残堀川に変わった。

 八王子市にある「恩方」という地名も興味深い。上恩方、下恩方に別れているが、なんと読むのか。「恩方」は「おんがた」と読むが恩方の由来ははっきりしない。

 八王子から西へ陣馬街道(甲州裏街道)が伸びているが、古くは「案下道」と呼ばれていたように、恩方も「案下村」といわれていた。

 一説には、アイヌ語に由来するともいわれる。アイヌ語の「オム」(股、腿の意)から「奥まったところ」の意味で「オムカタ」といい、「恩方」の字を当てたのではないか、という。

 上恩方町の宮尾神社の境内に、広く愛唱されている「夕焼小焼の碑」があり、近くには「夕やけ小やけふれあいの里」を開設。ここには作詞者中村雨紅に関する資料などが展示されている。

「廿里町」、読み方と由来は? 

 同じ八王子市だが、「廿里町」という難読地名もある。JR高尾駅の北側にのびる高尾街道に沿って広がる町名で「とどりまち」と読む。高尾駅北口から北へ進むと、右に武蔵野陵墓地の森が広がっているし、左には多摩森林学園の森がつづく。大部分は廿里山(標高340メートル)の山地だから、坂道が多い。

 このあたり一帯が廿里町だが、地名の由来については諸説あって、定説はない。しかし、京都からの距離が百里(約四百キロメートル)なので、中国式に「十十里」と書き、「廿里」になった、とする説が有力とされている。

 永禄12年(1560)、滝山合戦が行われたが、武田信玄の重臣・小山田信茂の軍勢が侵攻。滝山城(八王子市丹木町)を守っていた北条氏照の家臣・横地監物が廿里山で迎撃したものの、武田軍に敗北したと伝えられる。廿里町には、このような歴史もある。

 青梅市にある「塩船」も、すんなりとは読めない。JR青梅線を西へ進むと、多摩川の流れに沿って屈折しながら奥多摩に向かう。近年開発が進んだとはいえ、まだまだ自然がいっぱいの地域だ。

 このような海のないところで「塩船」という町名は、不思議である。大化年間(1645~649)、千手観音を安置したのがはじまりと伝えられる塩船観音寺(青梅市塩船一九四)によれば、名の由来は次のようなことだという。

 周囲の地形が小丘に囲まれ、船の形に似ていることから、仏が済度する誓いの船になぞらえて天平年間(729~748)、僧の行基が名づけたと伝えられている。

 「塩」のつく地名は、ほかにもあるが、塩をつけた土地は、一般的に水を含むと粘性をもつ土地とされ、作物がよくとれるという。

 JR青梅線に「軍畑」という駅がある。永禄6年(1563)、北条氏照とこのあたりの豪族三田綱秀とが戦ったところだ。綱秀は奮戦したものの、家臣の裏切りで敗北した。この合戦から軍畑の地名が生じたというが、現在は沢井1丁目に含まれ、駅名や橋の名として残るだけである。

 

文/中江 克己

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