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日本のシンドラー・杉原千畝が没~今日は何の日

7/31(月) 11:50配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

昭和61年7月31日

昭和61年(1986)7月31日、杉原千畝が亡くなりました。「日本のシンドラー」と呼ばれ、6000人のユダヤ人の命を救った外交官として知られます。

昭和15年(1940)7月18日早朝。リトアニアの首都・カウナスの高台にある日本領事館に、異様な群集が詰め掛けます。歩き通しで疲れ果てた表情の彼らは、いずれもポーランドから逃れてきたユダヤ系の老若男女で、日本通過のビザを求めていました。前年8月、ドイツとソ連はポーランド分割を密約して東西から侵攻、ポーランド在住のユダヤ人たちはナチスのユダヤ人狩りから逃れようとしますが、ドイツ軍の侵攻速度が速く、残された脱出路は北隣のリトアニアからソ連、日本を経由して第三国に向かうルートのみでした。そこで彼らは夜を日についで線路伝いに歩き、カウナスにたどり着いていたのです。
領事代理の杉原千畝は彼らの代表者数名と会い、諸氏の置かれている状況には心から同情し、出来うる限りのことはしたいが、8月25日限りで領事館閉鎖をソ連政府が要求してきており、また多人数のビザ発給には本国の了解が必要なので、3、4日待ってほしいと説得します。そして杉原は状況報告も兼ねた第一報を打ち、東京の外務省の指示を仰ぎました。

杉原はいわゆる生え抜きのキャリアではありません。明治33年(1900)、岐阜県八百津町に生まれた杉原は早稲田大学に学び、外務省の官費留学生募集に応じてロシア語学生としてハルピン学院に入学。24歳で語学力を買われて外務省書記生に採用され、34歳で満洲国外交部政務局ロシア課長に抜擢されます。その後、在モスクワ日本大使館通訳官に任命されますが、才腕を警戒されてソ連より入国拒否を受け、やむなくリトアニア領事館の領事代理を任じられていました。
杉原はハルピン学院時代、初代学長・後藤新平の「人の世話になるより人の世話をせよ。そして報いを求めるな」の言葉に感銘を受けたといわれます。 ところが、杉原の第一報に対する外務省からの返電は「受入国の入国許可証と旅行・滞在費を持たなければ、ビザ発給を認めない」という拒否回答でした。杉原は「今は条件を満たしていなくても、列車移動と日本滞在の間に満たされるはずだから、ビザ発給を許可されたい」と、女性や幼い子供たちも多い避難民の立場に立って第二電を打ちますが、本省からの回答はやはり「ノー」でした。
杉原は悩みます。「ユダヤ人は赤の他人だ。本省の命令に背けば、免職もありうる。しかし彼らを見殺しにすることが、本当に国益に叶うことか。いや、人間として正しいことか」。そんな杉原の背中を押したのが、幸子夫人でした。「この人たちを置き去りにして、私たちだけが逃げるなんて、絶対にできません」。

7月29日、杉原はビザ発給を決断します。 連日、昼食抜きで、避難民一人ひとりの事情を聴取しながら、一枚ずつ手書きで発行しました。万年筆は折れ、手首から肩まで猛烈に痛む中、1日平均300人を目標にし、夜はベッドに倒れ込むなり死んだように眠る日々です。外務省やソ連政府の退去命令にも粘り続け、8月28日にようやく領事館を閉鎖したものの、9月5日までホテルに滞在して発給を続けました。そしてベルリン行きの列車に乗り込んでも、発車間際まで窓から身を乗り出して許可証を書き続けたのです。列車が動き始めた時、杉原は「許して下さい。私にはもう書けない。皆さんのご無事を祈っています」と深々と頭を下げると、ホームから「スギハァラ、私たちは決してあなたを忘れません」という感謝の涙声が湧き上がりました。

戦後、昭和22年(1947)に収容所から解放されて帰国した杉原を待っていたのは、外務省免官でした。杉原は貿易関係の仕事に就き、海外生活を送るようになります。そんな杉原を、彼のビザで助けられたユダヤ人たちが探し出すのは、昭和43年(1968)のことでした。その中にはイスラエルの宗教大臣になっていた者もいて、杉原が職を賭してビザを発給していた事情を初めて知って驚き、また外務省を追われたことを憤慨します。昭和60年(1985)、イスラエル政府は日本人に対して唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を杉原に贈りました。その翌年、杉原は没します。享年86。日本政府が公式に杉原の名誉回復を行なったのは、平成12年(2000)のことでした。

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