ここから本文です

そもそも教育は何のため?

7/31(月) 14:10配信

教員養成セミナー

■「教育哲学」は役に立つ
 「哲学」とか「教育哲学」とか聞くと、多くの方は、何か難しそう、とか、結局実践には何の役にも立たないよね、とか思われるんじゃないかと思います。ルソーとかフレーベルとかデューイとか、教員採用試験のために今覚えているけど、ほんとめんどくさい、なんて思われる方も、きっと少なくないと思います。

 でも、私は胸を張って言いたいと思います。教育哲学は、教育に関わるすべての人に、それはもうとんでもなく役に立つのだ、と。

 と言うのも、教育哲学の一番大事な仕事は、ひと言で言えば次のようなものだからです。すなわち、「そもそも教育とは何か?」「どうあれば『よい』と言えるのか?」という問いに、誰もができるだけ納得できる“ 答え” をとことん見出すこと、と。

 もちろん、この問いに絶対に正しい答えはありません。でも教育哲学は、2500年にもおよぶ長い知の蓄積を通して、その深い考えを見出してきたのです。

 そんな教育哲学が、役に立たないはずがありません。なぜなら私たちは、「そもそも教育とは何か?」「どうあれば『よい』と言えるのか?」という問いへの力強い答えなしに、確かな実践を自信を持って重ねていくことなんてできないからです。

 自分の実践は本当に「よい」と言えるのだろうか? こうすればもっと「よい」ものになるんじゃないだろうか? 実践者にとって、教育哲学は、そんなふうに自分の実践を一番底で支えるためにあるのです。


■「方法のパッチワーク」から脱却しよう
 学校の先生方は、多くの場合、教育の「方法論」に一番関心を持たれます。アクティブ・ラーニングにはあんな手法がある、こんな手法がある。そんなことに関心を持たれます。でも、一体何のためにその方法を使うのかという“ 根っこ” の理解がなければ、私たちは結局「方法のパッチワーク」に陥ってしまいかねません。この手法は何だかうまくいかなかったな、じゃあ次はあれをやってみよう、いやこれも違うな、じゃあ今度はあれを……。試行錯誤は悪いことではありません。でも、“ 根っこ” のない実践は、いつまでたっても私たちを迷走させるだけなのです。

 だからこそ、「そもそも何のための教育か?」という問いを、私たちはちゃんと考える必要があります。それはまた、「そもそも教師は何のためにいるのか?」「どんな実践なら『よい』と言えるのか」という問いに答えることでもあります。こうした問いに深く答えられるようになって初めて、私たちは、その時々の状況に応じて、力強い確かな実践を築いてい
くことができるはずなのです。


■教育とは、皆が「自由」に生きられる力を育むもの
 そもそも教育とは何かという問いに簡潔に答えることにしたいと思います。

 長い教育哲学の歴史を通して、私たちはその“答え”をすでに手に入れているのです。それは、繰り返しますが絶対に正しい“答え”ではありません。でも、教育哲学はすでにここまで考えを深めてきたのだということを、ぜひ皆さんには知っていただきたいと思います。

 結論から言えば、それは、すべての子どもが「自由」に、つまり「生きたいように生きられる」ための“ 力”を育むためのものです。

 「自由」と言っても、それはワガママ放題のことではありません。なぜなら私たちは、「自分は自由だ、自由だ」と一方的に主張していれば、必ず他者とぶつかることになり、そのためかえって自分の「自由」を失ってしまうことになるからです。

 そこで私たちは、自分が「自由」に、つまり「生きたいように生きる」ためにも、他者の「自由」もまた認め、尊重できるようになる必要があります。

 これを「自由の相互承認」と呼びます。つまり教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、すべての子どもが「自由」に生きられるための“ 力” を育むためにこそあるのです。

 時折、学校教育は国や社会を発展させるためにある、だから、限られた予算を効率よく使うために、“できる子”(イヤな言葉ですが)に集中投資するべきだ、という議論を耳にします。そして、“ できない子”(もっとイヤな言葉です)にはそれなりの教育を与えておけば十分だ、と。

 でも、これは大きな間違いです。

 教育は、すべての子どもの「自由」とその「相互承認」を実質化するものです。もし、より「自由」への機会を与えられた子どもと、そうでない子どもが区別されたなら、「自由」をめぐる闘争が起こることになるでしょう。実際、人類の歴史は、「自由」を得るための戦争の歴史にほかならず、また「自由」を享受する一部の人びとに対する、「自由」を奪われた者たちによる戦いの歴史にほかなりませんでした。

 もし、私たちがこの命の奪い合いを終わらせ、「自由」で平和な社会を築きたいと願うのならば、誰もが「自由の相互承認」の原理を共有するほかにない。そう哲学者たちは考えました。「自由の相互承認」の原理は、人類の一万年以上におよぶ戦争の歴史を通して、わずか二百数十年前に哲学者たちによって見出された原理だったのです。そして教育は、すべての子どもの「自由」とその「相互承認」を実質化するために発明された、(法や福祉に並んで)最も大事な制度的発明だったのです。


■実践の“根っこ”
 さて、上のことにもし納得がいったなら、教師として具体的に考えていくべきは次の3つの問いになります。

1 現代において「自由」に生きるための“力”は何か?
2 その“ 力” はどうすれば育めるのか?
3「 自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?

 この3つを常に考えながら実践すれば、「方法のパッチワーク」に陥ることはなくなります。

 どのような「方法」も、子どもたちの「自由」とその「相互承認」を実現するためにあるのです。


※「教員養成セミナー2017年9月号」より


苫野一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(教育学)。

記事提供社からのご案内(外部サイト)

教員養成セミナー

時事通信出版局

2017年11月号
9月22日発売

1,300円+税