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今日は何の日~小山評定で山内一豊による「パクリ事件」にも負けず、関ケ原で頑張った堀尾忠氏が没

8/4(金) 6:50配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

慶長9年8月4日

慶長9年8月4日(1604年8月28日)、堀尾忠氏が没しました。堀尾吉晴の次男で堀尾家を継ぎ、小山評定の際の山内一豊との逸話で知られます。

天正6年(1578)、忠氏は堀尾吉晴の次男に生まれました。一説に長男の金助は吉晴の弟の子を養子にしたもので、忠氏が長男であるともいいます。天正18年(1590)、金助が小田原の陣中で没したため、13歳の忠氏が世子となりました。父親の吉晴は柔和な顔立ちから「仏の茂助」と呼ばれました。しかしその異名とは裏腹に、戦場では勇猛果敢であったことから織田信長からしばしば賞せられ、羽柴秀吉麾下でも三木城攻め、備中高松城攻め、さらに山崎の合戦では天王山を占領する殊勲を挙げて、秀吉からも大いに頼りにされます。

小田原の陣後、秀吉から遠州浜松城12万石を与えられました。 秀吉が没し、徳川家康と石田三成らが対立すると、吉晴は双方の融和に努めましたが、次第に家康に心服し、対立が決定的となると家康に与します。家康は越前府中5万石を吉晴に隠居料として与えてこれに報い、浜松城12万石は忠氏が継承しました。

慶長5年(1600)、家康が上杉討伐の軍を興すと、吉晴も従軍を願いましたが、上方の動きを懸念する家康は、吉晴に越前府中で大坂の動向に対処することを命じ、代わりに忠氏を同陣させます。そして軍勢が下野小山付近に至った時、上方で三成らが挙兵した知らせが届きました。家康は諸将の存念を確認すべく軍議を開くことにします。小山評定です。

『藩翰譜』によると、その軍議の前に、忠氏のもとを旧知の山内一豊が訪ねてきて、身の振り方を相談したといいます。迷っている一豊に対して忠氏は、「自分は内府殿(家康)に城地を差し出すつもりです」と応えました。そして評定が始まると、福島正則が先頭を切って「三成討つべし」と叫び、その後にやおら立ち上がった一豊が、「わが居城を内府殿に進呈します。城には兵糧も蓄えられております。人質も差し出しましょう。それがしは先陣を承りたい」と、忠氏が考えていたことを抜けぬけと言上し、家康を大いに喜ばせました。まんまと一豊に妙案を奪われた忠氏は怒るでもなく、「日頃篤実なあなたとは思えませぬな」と言って、一豊と笑いあったとか。度量が大きいのか、苦労知らずゆえの甘さなのか。

しかし忠氏は関ケ原では前哨戦で武功を上げ、本戦では南宮山の長宗我部隊を牽制し、戦後、出雲・隠岐24万石に加増されるに至りました。

出雲に移った忠氏は、父・吉晴と新城をどこに築くかを相談し、吉晴が洗合山を推したのに対し、極楽寺山(亀田山)が適切と考え、実地調査を行ないました。忠氏はその直後に病死するのですが、地元に伝わる話では、調査の帰路、神魂(かもす)神社に寄った忠氏は、神社の奥にある灌漑用水を引くための池を検分します。神官は池に近寄ると不吉な異変が起こるといって忠氏を引き止めますが、「予の治める土地にさような場所があってはならぬ」と鬱蒼とした谷に入り、蝮に咬まれました。血清のある時代ではなく、忠氏は月山富田城に戻って意識不明となり急逝したといいます。享年27。

父・吉晴は息子の遺志を重んじて、松江城を完成させています。

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