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<前編>高橋靖子 | 仕事とは?

8/8(火) 10:00配信

就職ジャーナル

仕事とは?
<前編>高橋靖子


たかはし・やすこ●1941年、茨城県生まれ。1964年、早稲田大学政治経済学部卒業。コピーライターとして電通に8カ月間勤務後、原宿セントラルアパートにあった広告制作会社・レマンを経てフリーランスのスタイリストに。1971年、単身ロンドンに渡り、山本寛斎さんのファッションショーを成功させる。1972年にデヴィッド・ボウイの衣装を初めて手がける。以後、多くのロックミュージシャンやアーティストの衣装を担当。現在も広告、CMなど第一線で活躍中。最近では北野武さん、山崎努さん、リリー・フランキーさんなどのスタイリングを担当した。著書に『表参道のヤッコさん』『わたしに拍手!』『小さな食卓』など。

■ 女性の就職先が少なかった時代に、コピーライターとして社会へ

-高橋さんが大学を卒業したのは、1964年。東京オリンピックが開催された年です。

陰の部分もあったでしょうけれど、世の中がすくすくと成長し、希望にあふれている時代でした。若い人たちに対する社会の目線も、もしかしたら今より少し優しかったかもしれません。ただ、大卒の女性の就職は厳しくて、多くの企業が募集すらしていませんでした。

 

そんな中、大学4年生の時に通っていたコピーライター養成講座で電通の社員の方から声をかけてもらって、試験も受けずにコピーライターとして就職したんです。養成所で毎月コピーコンテストがあって、よく賞を取っていたので、目を留めてくださったんでしょうね。電通でも大卒の女性社員は少ない時代でしたが、ちょうど化粧品会社や百貨店といったクライアントが広告に力を入れ始めていて、「女性のコピーライターも必要だね」ということになったんだと思います。

 

正社員ではありませんでしたが、入社後は結構かわいがってもらい、上司から「10年頑張ったら、部長にする」なんて言われていました。でも、このままでいいのかなという思いがどこかにあって。8カ月で辞めて、原宿のセントラルアパート(※)にあったレマンという小さな広告制作会社に転職しました。その会社にはプライベートで時々遊びに行っていて、なんとなくしっくりきたんです。

※東京・表参道と明治通りの交差点にあった住宅・商業施設。写真家やコピーライター、イラストレーターなどさまざまなクリエイターたちが事務所を構え、1960年代から1970年代の若者文化の発信地だった。

 

-その後、スタイリストとして活動されるようになったんですよね。

レマンでは音楽関係の会社と銀行を担当し、たどたどしくもコピーを書いたりしていました。ただ、私は机に向かい続けるのがどうも得意ではなくて(笑)。コピーライターとして半人前なのが申し訳ないという気持ちもあって、撮影場所を探したり、小道具や衣装を用意したりと自分にできそうなことをやっていたんですね。そうしたら、いつの間にかスタイリストのような仕事ばかりになり、会社にお世話になり続けるわけにもいかなくて独立したんです。

 

-当時はスタイリストという職業が確立されていなかったと思います。独立に不安はありませんでしたか?

組織に所属しているスタイリストの先輩は周りにもちょこちょこといましたが、フリーランスとして確定申告をしたのは私が第1号だと税務署で言われました。不安はね、ありました。自活しなければいけなかったしね。でも、仕事には不安ってつきものだと思うんです。不安で怖いけれど、やってみたいから、「えいや!」と飛び込む。だから、はたから見たら不安そうには見えなかったんじゃないかな。今もそうですよ。

 

■ T・レックスやデヴィッド・ボウイとの出会いのきっかけは、飛び込み

―T・レックスやデヴィッド・ボウイなど海外アーティストのスタイリングも1970年代から担当されていますね。きっかけは?

カメラマンの鋤田正義(すきた・まさよし)さんのおかげです。セントラルアパートの一角に「レオン」という毎日のように行っていた喫茶店があって、鋤田さんもよくお見かけしていたのですが、言葉を交わしたことはありませんでした。でも、ある日たまたますれ違い、友人で、当時15歳だったミュージシャンのCharがある青年のために開く追悼コンサートのビラを渡したんです。その時に「ヤッコさん(高橋さんの愛称)、ロック好きだったら、T・レックスって知ってる?」と聞かれて、実は名前くらいしか知らなかったのに、とっさに「はい」と答えたんです(笑)。

 

そうしたら、「T・レックスを撮影したいから、一緒にロンドンに行ってかけ合ってきてくれない?」とおっしゃって。飛び込みでT・レックスのマネージャーさんに交渉してフォトセッションが実現し、スタイリングを担当しました。その撮影中に当時日本ではまだあまり知られていなかったデヴィッド・ボウイのポスターを見て、「撮りたいね」ということになり、レコード会社に電話したのがデヴィッド・ボウイとの出会いのきっかけでした。

 

■ 自分が何かすごいものにかかわっているなんて、自覚していなかった

―飛び込み! すごい行動力ですね。

承諾をもらえたのは、鋤田さんのポートフォリオの力ですけどね。今思えば、鋤田さんが私に声をかけてくれたのは、その前年に私が山本寛斎さんのロンドンでの初めてのショーをお手伝いしたことを知っていたから。「彼女なら撮影手配のようなこともできるかもしれない」と思ってくれたんじゃないかな。

 

でも、寛斎さんのショーのプロデュースも私には生まれて初めての経験だったんですよ。その少し前にスタイリングの勉強のためにニューヨークに6週間行ったことがあって、かねてから仕事を通して知り合いだった寛斎さんから「お金を払って外国に行くんじゃなくて、仕事で行けばいいじゃない」とロンドンでのショー開催のプロデュースを頼まれたんです。それで、寛斎さんの作品2着と格安で買った航空チケットを持って日本をたったのですが、頼りは伊丹十三さんの友達の中国系英国人マイケル・チャオさんのアドレスだけ。予算が少ないこともあって、最初はマイケルさんにも相手にされませんでした。でも、無我夢中でマイケルさんを説得して助けを借り、最終的にはショーができちゃったんです。

 

振り返ると、あの時に寛斎さんや鋤田さんがやったことは、それぞれの世界でちょっと歴史的と言っていいくらいのこと。私もそこに立ち会えたことを幸せだなと思います。だけど、自分が何かすごいものにかかわっているなんて自覚していなかった。できないこと、やったことがないことだらけだけど、声をかけてもらったことがうれしくて、「きゃ~」とか「わ~」とか心を躍らせながら、必死でやっていただけ。新しいことをやるとか、新しい分野に足を踏み入れるというのはそういうものなのかもしれません。

 

後編ではスタイリストとして大切にしてきたことや、つらい時期をどのように乗り越えたかをうかがいます。

→次回へ続く

(後編 8月9日更新予定)

 

■ INFORMATION

著書『時をかけるヤッコさん』(文藝春秋/本体1580円+税)。デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、矢沢永吉、坂本龍一、忌野清志郎から、ももクロクローバーZまで高橋さんの交友録と人生を語ったエッセー。1970年代のカルチャーの記録として楽しめるだけでなく、フリーランスとして生きる意味、離婚や介護など人生のほろ苦さも描かれており、読み応えがある。

 

取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康

最終更新:8/8(火) 10:00
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