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【文庫双六】谷崎が日本美に目覚めたきっかけ――野崎歓

8/8(火) 11:00配信

Book Bang

 外国で諜報活動にあたった日本人たちがいたように、外国から日本にやってきたスパイもいた。これは文豪谷崎が、それと知らずにオーストリア人スパイと接触を持ち、しばし濃密なつきあいをした体験談である。

 大正時代、谷崎は西洋崇拝熱にとりつかれていた。洋行の夢はなかなか叶わず、せめて留学気分を味わおうと、知人に紹介された「墺太利の臣民」G氏からフランス語を習うのだ。

 僕がこの作品の存在を知ったのはパリ留学中のこと。知り合いの日本語を学ぶフランス人女性から質問を受けたのである。その小柄な婦人は元大学教授で、退官後に日本語学習を志し、ご高齢にもかかわらずパリ東洋語学校で熱心に励んでおられた。他にも開高健の『ずばり東京』や「寅さん」のシナリオが教材になっていた。ずいぶん充実したカリキュラムだったわけである。

「独探」の面白さは、むやみな西洋への憧れに対する一種の解毒剤となっているところにある。作家はヨーロッパ映画を見ては「此の世の物としも想はれない(……)天女の群」とうっとりとなり、西洋の女に憧れを募らせる。G氏は男だが、金髪のエレガントな雰囲気で最初、作家を魅了する。

 だがG氏がゴッホの名前を聞いたこともないような粗野で無教養な男であることがじきに露呈する。日本の女たちと色恋にふけっていることもわかってくる。「西洋の女が日本の女より優れて居ると思つたら非常な間違いです」とG氏は力説し、作家は彼とともに夜の巷に繰り出すようになる。

 スパイ容疑をかけられたG氏は唐突に姿を消す。結局、自分は外国語会話は「未だに一と言も駄目」だと作家は頭をかく。だがレッスンの勘所は、日本女性の魅力に目を開かされたところにあった。何事も外国人の立場になってみると見え方が違ってくるものだ。やがて数年後、谷崎は半ば外国人として関西に移住し、みごと伝統的な日本美の礼賛者に変身するのである。

[レビュアー]野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

新潮社 週刊新潮 2017年8月3日号 掲載

新潮社

最終更新:8/8(火) 11:00
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