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横浜F消滅を経験、選手バス運転手が抱いた疑問「なんで横浜だけひとつに?」【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

8/9(水) 11:31配信

フットボールチャンネル

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

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●「ゲルバス」と呼ばれた選手バス。単なる運転手以上の存在

 1999年に消滅した横浜フリューゲルスについて、さまざまな「当事者」たちの言葉を集めて再現する当連載。当初は、人づてに次のインタビュイーを探しながら、月1回のペースでの掲載を目指していた。

 ところが、前回の前田治のインタビューから実に3ヶ月が空いてしまい、当連載を楽しみにしていた皆さんには大変申し訳ないことをしてしまった。この場を借りてお詫びしたい。

 端的に言えば、次のインタビュー取材がなかなか実施できなかったのだ。取材候補に考えていた人は何人かいたのだが(いずれも興味深い内容になるという確信もあった)、粘り強い交渉にもかかわらず実現には至らなかった。

 取材する側としては「あれから20年が経ったのだから語れることもあるだろう」という思惑があったのだが、当時のことを思い出すことにためらいがあったり、立場的にまだ語れなかったりする人も一定数いることを思い知った次第だ。

 そんな中、ようやくわれわれのオファーに快く応じてくれたのが、選手バスの専属ドライバーを務めていた山田慎吾である。

 山田は47歳の時、当時所属していたイースタン観光から全日空スポーツクラブに出向する形で、専属ドライバーとなった。初仕事は94年3月5日のゼロックス・スーパーカップ。以来、99年1月1日の天皇杯決勝まで、山田はドライバーとして常にチームに帯同していた。

 フリューゲルスのファンは、この選手バスを「ゲルバス」と呼び、ドライバーの山田と共に深い愛着を抱いていた。また当時の選手たちも、山田を単なる運転手以上の存在として接していたフシが見られる。

 あれから間もなく20年。現在、千葉県成田市で静かに暮らす山田を尋ねると、古いカバンをおもむろに閻いて、ゲルバスのハンドルを握っていた日々のことを語り始めた。

●職を転々としたのちに出会ったゲルバス

 今日は取材があるっていうんで、仕事で使っていたカバンを引っ張り出してきたんだよ。(ゲルバスの運転手を)辞めてから、ずっとそのままにしていたからね。こういう行程表なんかも、捨てずにちゃんと残っている。昔はこういうの、FAXでやりとりしていたんだねえ。

 これはサンちゃん(セザール・サンパイオ)からもらった聖書。ほら、ここにサインが書いてあるでしょ。当時、サテライトを含めて50人くらい選手やスタッフがいたんだけど、全員にプレゼントしていましたね。本当に律儀な人でした。

 生まれは昭和21年、今年で71歳。出身は北海道の札幌です。親父は非常に封建的な人間でね、最初は僕を銀行員に、それが難しいとわかると寺に修行に行かせて坊主にしようとしたんだよね。

 でも僕は4人兄弟の2番目ということもあってさ、自由奔放な性格というか、ひねくれていたというか。せっかく入った高校も中退して、19歳のときにこっち(関東)に出てきたの。とにかく、誰かに決められるような人生を送るのがまっぴらごめんだった。

 ドライバーとして生きていくことは、高校時代からの夢だったね。こっちに来てすぐに大型免許一種を取った。それからゲルバスの運転手になるまで、いろんな仕事をしたよね。最初は日産の座間工場に入って、トラックだとか商用車の部品を運んでいたね。

 それから港から船に車を納める仕事とか、タクシーの運転手とか。路線バスの運転手とか。でも何を思ったか、いったん足を洗って飲食店を始めたんだけど、2年ももたなかった(苦笑)。向いてなかったんだね。すぐにハンドル稼業に戻りました。

 再びバス業界に舞い戻って、今度は観光バスのドライバーになったの。そのあと平成2年(1990年)にイースタン観光という会社に入って、最初はフジテレビのハイヤーを運転していたんだけど、ある時に部長から「おいヤマ、フリューゲルスというJリーグのチームが選手バスのドライバーを探しているんだが、どうだ?」とお声がかかったんですね。

 その時、僕は言ったんです。「実際にバスを見てから決めさせてください」って。幼稚園の送迎バスみたいなのだったら、絶対に嫌だったからね(笑)。

●三浦淳宏が集めてくれたカンパ

 それで名古屋の工場に行って、現物を見たんだよ。いやあ、参ったね。観光バス時代には乗ったことのないタイプだった。ちょっと専門的な話になるけど、バスって排気ブレーキが主流なんだ。

 ところがそいつはリターダブレーキといって、排気ブレーキやエンジンブレーキ以上の制動力が得られる。しかもよくある2段ではなく4段になっていて、(時速)130キロから一気に4段にぶっこむと、すっと100キロまで落ちてくれる。人間の足でブレーキを踏むよりもスムースで賢いんだな。これは完ぺきだと思いましたよ。

 僕のゲルバスデビュー戦は、94年3月のゼロックス・スーパーカップ。相手はヴェルディ川崎だったかな。六本木の全日空ホテルから出発したんだけど、(シーズンの)スタートだから選手だけなく全日空の役員さんとかも乗ってきたんだ。

 座席は29しかないのに35人も乗ってきて、肘掛けに腰を下ろしている人もいて。あの時は背中一面が汗びっしょりになったねえ(苦笑)。最初は確かスーツで運転していたね。2回目も3回目もそう。

 そしたら、マネージャーの人が「山田さん、もっとラフな格好でいいですよ」って言われて、フリューゲルスのロゴが入ったトレーニングウエアをもらったんだ。

 選手の皆さんとは、仲良くさせていただきましたね。飲み会にも誘ってもらったし、家族参加のバーベキューにも参加できたし、今となっては全部いい思い出です。そういえばゲルバスに缶ビールを用意していて、試合後に皆さん飲んでいましたねえ。他のチームもやっていたのかな?

 ただゾノさん(前園真聖)は、当時は未成年ということもあって飲まなかったね。あの人がヴェルディに移籍するなんて話になったとき、「行くな、絶対に後悔するぞ!」なんて声が、運転している時に聞こえたこともありました。

 山口(素弘)さん、薩川(了洋)さん、アツさん(三浦淳宏)、楢崎(正剛)さん、皆さん懐かしいねえ。今も現役なのは、楢崎さんだけですか。

 そうそう、こんな思い出もあります。プライベートで神戸での試合を見に行ったんですよ。試合後にロッカールームにあいさつに行って「それじゃあ僕、高速バスで帰ります」って言ったら、山口さんが「山田さん、僕らと一緒にグリーン車で帰ろうよ」と送迎バスに乗せてくれて、アツさんがカンパを集めてくれたんです。「これだけあれば、一緒に帰れるね」って。あの時は泣けてくるほど嬉しかった。

●ゲルバスとはいつも一緒に移動。まさに一心同体

 アウェイで自走するのは、一番遠いところで名古屋まで。ただ最初の頃は、九州も準ホームタウンになっていたでしょ? 長崎、熊本、それと鹿児島か。川崎からゲルバスをフェリーに載せて、宮崎あたりで上げてから空港で選手の皆さんを迎えに行きましたよ。

 フロントの人からは「山田さんも選手と飛行機移動でいいですよ」って言われたけど、ゲルバスだけってわけにはいかない。ですから、いつも一緒に移動していました。まさに一心同体でね。

 アウェイといえば、よく対戦相手のバス仲間に助けてもらいましたね。浦和レッズなんかは、当時から過激な応援で有名だったじゃないですか。サポーターが生卵を投げつけてくるんだよね。生卵って殻がこびりついて、非常に厄介なんだ。そうしたら浦和のドライバーさんが「ヤマちゃん、こっちに停めろよ」と言って、安全なスペースに誘導してくれました。

 それとか日本平で試合が押して、「こりゃあ新幹線に間に合わない!」って慌てていたら、清水観光のドライバーさんが早く到着できるルートを教えてくれて助かった、とかね。そんな話はいくらでもありますよ。

 僕はイースタンからフリューゲルスに出向する時、部長に「選手バスの仕事を10年やったら帰ってきますから」って言ったんです。ゲルバスのドライバーになったのが47歳で、そこから10年後っていったら57歳でしょ。還暦まであと3年ってことだったら、まあ潮時だよね。

 ゲルバスを卒業したら、またハイヤーのドライバーに戻ればいいかなって、漠然と考えていた。ワイドショーの事件現場に行くこともあったけど、役員をゴルフ場まで運んで、ずーっと待っているなんて仕事も多かったからね。

「あの日」までは、相変わらずフリューゲルスで楽しく仕事をしていましたよ。ドライバーとしてはもちろん、ホペイロの手伝いみたいなこともやっていました。

 選手の皆さんを目的地まで運んだら仕事が終わり、じゃなくてロッカールームにも入れてもらって、アップ用のユニフォームを集めてワゴン車にぶっこんだりしていました。

●10年続けるつもりが5年で終わるとは

 当時はパンチパーマだったから「あの人、ジーニョの親父さん?」とか言われたこともありましたね(笑)。ロッカールームで円陣を組む時も、輪の中に入れてもらっていました。

 僕自身、ずっと好き勝手に生きてきたし、会社勤めであっても一匹狼のドライバーという気概はあった。だからまさか、こんな形で「チーム」に受け入れてくれるとは思わなかったですねえ。しかもプロのサッカー選手の皆さんに、仲間として受け入れられるなんてねえ。

 だから僕も「自分にできることは何だろう?」って考えて、試合後の移動のときには「今日の試合には痺れました」とか「明日の練習場は戸塚です。アップシューズをお忘れなく」とか、そんな感じでアナウンスしていました。わりと好評だったみたいですよ(笑)。

(10月29日の合併のニュースは)多分、TVで知ったと思います。あれ、新聞だったかな。あんまりよく覚えてないや(苦笑)。それでも、まあショックではありましたよ。(横浜)マリノスも立派な選手バスがありましたから、「ああ、これでお役御免だな」と思いましたね。

 会社からの説明? ありませんよ。球団からも、イースタンからもね。自分から何か聞こうとも思わなかったです。ただ「ああ、そうなんだ」という感じ。

 そりゃあ「なんで合併?」っていう思いはありましたよ。「静岡にも大阪にも2つの球団があるのに、なんで横浜だけひとつにならなければならないの?」っていう疑問みたいなのは感じていました。

 それでも、こっちはハンドル稼業ですから、それ以上のことは踏み込めない。自分のやるべき仕事のことを粛々と続けていくしかないと思っていましたね。

 ですから、あの日のことは実はあんまりよく覚えていないです。ただ、ゲルバスの仕事を10年続けるつもりが、5年で終わるとは夢にも思わなかったですね。

(取材・文:宇都宮徹壱)

【後編につづく。文中敬称略】

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