ここから本文です

73歳と76歳の超ベテラン監督が語る「甲子園で指揮をとる幸せ」

8/12(土) 8:12配信

webスポルティーバ

ベテラン監督3人の「甲子園物語」・後編

 73歳になる大垣日大(岐阜)の監督、阪口慶三の耳に今も残っているのが、東邦(愛知)の監督時代に浴びせられた当時の校長の声だ。

【写真】秀岳館のダブルサウスポー

「中京に負けるために君を呼んだんじゃない。なんでもっと勉強しないんだ!」

 阪口は廊下にまで響きわたる激しい叱責を、東大野球部出身の校長から受けた。当時、野球部だけでなく学校としてもライバル関係にあった中京(現・中京大中京)に敗れたあとの言葉は、特に尖っていた。

 阪口が中学3年時、愛知県内の有力校からいくつか誘いを受けるなかで東邦進学を決めたのは、「純白のユニフォームにひと目惚れしたから」だった。投手兼一塁手として甲子園にも出場したが、中京には勝てなかった。

 卒業後、愛知大に進み野球部に在籍するも、将来は銀行マンになろうと考えていた。大学で教職課程を取ったのも、実はそのためだった。

「銀行マンといえば、東大、京大卒のエリートが多い。そのなかで学生時代は野球をやっていてキャプテン。4年で卒業して、教職も取っているとなれば、『よう努力しとるな』『面白そうなヤツだな』と思われるんじゃないかと。それで教職を取ったんです」

 しかし、そこへ東邦からの誘いがあり、1967年に教員として母校へ戻った。野球部を手伝ってくれとは言われたが、当然、コーチだと思っていた。ところが、4月1日に学校へ向かうと、校長からこう言われた。

「今日から監督をやってくれ。今のままでは中京を破ることはできん。中京に勝つ野球を考えてみよ」

 黙って頷くしかなかった。直後の春の県大会で1回戦負け。様々な代のOBから連夜の呼び出しを受け、「あそこはバントだろ」「なんでスクイズしないんだ」といろんな意見を頂戴した。

「天下の名門には姑がいっぱいおったからね(笑)」

 東邦は戦前の1934年、39年、41年とセンバツ優勝を果たすなど、全国屈指の強豪校だったが、夏は勝てなかった。なにより、中京に勝てなかった。

「こっちはブリキ集団。向こう(中京)はステンレス軍団」

 自らそう例えたエリート集団を倒すためには、絶対的な練習量を積むしかない......それしか思い浮かばなかった。

「オレたちはこれだけやったんだと、自信を持てる練習量。それは選手だけでなく、右も左もわからないなかで監督になった私も同じ。信じられるものがほしかった」

 休日はなく、4キロにおよぶうさぎ跳びや、時間を忘れてのランニングなど、想像を絶する猛練習の日々。鉄拳や怒号が飛び交うグラウンドで“鬼の阪口“となり、強い東邦が築かれていった。

 打倒・中京の思いが結実したのが就任3年目(1969年)の夏。県大会準決勝で平均身長167.8センチのブリキ集団が、まさかの一発で逆転サヨナラ勝ち。決勝も勝利し、阪口監督となって初めての甲子園を決めると、その年から愛知の夏を3年連続で制した。

 1977年の夏は、1年生エース“バンビ“こと坂本圭一の好投で全国準優勝。80年代になってからは愛工大名電、享栄も加わり“愛知4強“のなかでしのぎを削った。その後、1988年のセンバツでも準優勝、1989年のセンバツで優勝を飾るなど、実績を積んでいった。

 そして2005年に38年過ごした東邦を離れ、岐阜の大垣日大に戦いの場を移す。すぐさま2007年春に希望枠で同校初の甲子園出場を果たすと、この夏も含め通算7度出場。瞬く間に常連校へと導いた。

 かつてのように怒ることは減り、逆に褒める回数は格段に増えたが、“鬼の阪口“を支えてきた熱き思いは、今も失われていない。昨年夏、県大会決勝で中京学院大中京に敗れた悔しさが、今回の甲子園につながったと阪口は言う。

「負けたあと、嫁から『だらしないゲームやったね。練習が甘いせいじゃないの?』って言われてね。自分でも思うところがあったし、負けの悔しさを忘れず、そこからもう一度厳しくやりました」

1/3ページ

記事提供社からのご案内(外部サイト)

Sportiva

集英社

Sportivaムック
4月13日発売

定価 本体1,472円+税

フィギュア特集
『羽生結弦 平昌への道』
■ヘルシンキの激闘
■宇野昌磨、本田真凜ほか