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エスパルス移籍で、変えざるを得なかったプレースタイル  ~安永聡太郎Vol.9~

8/13(日) 0:00配信

現代ビジネス

移籍を後押しした「不満」

 1998年10月28日、横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併に向けて動いていることが発覚した。

 フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が経営不振に陥っており、もう1つの出資会社、全日空もクラブを支えきれないと判断したのだ。

 そして日産自動車と協議の上、マリノス主導でフリューゲルスが吸収合併されることになった。この合併は翌日行われたJリーグ理事会で承認。この年の天皇杯がフリューゲルスとして最後の大会となることになった。

 合併後、永井秀樹、三浦淳宏、波戸康広など5選手がフリューゲルスからマリノスに“移籍”した。彼らの加入の同時期、安永聡太郎に清水エスパルスからオファーが届いたという。

 「ぼくとしてはスペインから帰ってきて、監督がスペイン人で気持ち良くサッカーが出来た。次の年もスペイン人の監督だったので、ぼくとしてはマリノスでやりたかったんですが、給料が少し下がると言われた。そんなときにエスパルスから給料の面でマリノスより好条件でぼくを欲しいという話があった。

 エスパルス側はマリノスの希望する移籍金も準備していた。ぼくはマリノスの人に“給料の面でエスパルスと同じくらいに何とかなりませんか? と話したんです。そうしたら、“向こうの話を聞いておいで”とチームの人から言われた。移籍金を満額出してくれるし、行きたきゃ行ってもいいよ、と。それがすごく淋しくて“じゃあ、エスパルスに行こう”と思った」

 自分はスペインでもう少しやりたかった。チームのために日本へ帰って来いと言われて戻ってきたのに、その扱いはないだろうという不満も移籍を後押しした。

 翌99年シーズン、安永は清水エスパルスに移籍した。しかし――。

 「ぼくがエスパルスに行ってもいいなと思っていたのは、(オズワルド)アルディレス(監督)のサッカーを見ていたからなんです。ところがアルディレスが98年シーズンの途中に辞めてペリマンになっていた」

 スティーブ・ペリマンは元イングランド代表選手経験を持つ指導者である。

 「ペリマンの戦術は、1枚ポストプレーの出来る選手を前線に置いて、もう1枚のフォワードは衛星のように動き回るというものだった。ポストプレーの選手はボールを受けたら、すぐにはたけという。ぼくはそれが凄く嫌だった」

 はたく、とはフォワードは自分でゴールに向かうのではなく、ゴールを背にしてサイドを駆け上がってくる選手にボールを出したり、相手ゴール方向を向いている中盤の選手にボールを出したりすることを意味する。そしてサイドの選手や中盤の選手が前にボールを運び、ゴール近くで中央に戻す。

 「スペインのリェイダでボールを持ったら前に行くという感覚が身につきつつあった。マリノスでもそのサッカーでいい感触があった。ぼくの中ではフォワードというのはボールを持ったら前に行くべき。受けたら(近くの選手に)はたくというのは、マイナス思考だと思っていた。自分の中では(ボールを持ったら、相手のゴールに向かって)突っかけてナンボのもんだと思っていたのに、それを禁じられた。“俺の良さが出ないじゃん”って」

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最終更新:8/13(日) 0:00
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