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甲子園決勝で「出番なし」の悔いが変えた人生

8/14(月) 11:00配信

東洋経済オンライン

今年も「夏の甲子園」が佳境を迎え、高校球児たちが熱戦を繰り広げている。まばゆい日差しの下、勝者と敗者のコントラストも強烈に浮かび上がる。しかし、負けたからこそ、大きなものを得ることもある。甲子園の大舞台で味わった悔しい思いを糧にできるかどうかは、まさに本人次第なのだ。
今年第99回を数える全国高校野球選手権大会の歴史からは、そんな実例が数多く出ている。拙著『敗北を力に!』でも紹介した悔しさをバネに変えた1人が、近鉄バファローズなどで活躍した元投手の佐野慈紀氏だ。佐野氏は、とうとう「出番がなかった」夏の甲子園決勝を振り返る。

 1986年夏の甲子園。31年前の大会のことをどれだけの人が記憶にとどめているだろうか。伊良部秀輝(香川・尽誠学園)、岡林洋一(高知・高知商業)、長谷川滋利(兵庫・東洋大姫路)、上原晃(沖縄・沖縄水産)など、のちにプロ野球で活躍する好投手が躍動した夏、優勝したのは奈良県代表の天理だった。

 出場49校のなかに、実力がありながらもエースナンバーの背番号「1」をつけることができない控え投手がいた。ひとりは高津臣吾(広島・広島工業)。高校卒業後に亜細亜大学に進み、1990年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。日米の通算成績は44勝52敗313セーブ。抑えの切り札として、メジャーリーグでもプレイした男は、投手としてマウンドに上がることができずひっそりと甲子園から姿を消した。

 そして、もうひとりが、準優勝した愛媛県代表、松山商業で背番号9をつけていた佐野慈紀だ。近畿大学工学部に進学後、近鉄バファローズにドラフト3位指名を受け、プロ野球で中継ぎ投手として初めての1億円プレイヤーになった彼も、高校時代は背番号1をつけることができなかった。

 佐野は振り返る。「私は高校時代、エースにはなれませんでしたが、挫折を味わうことはありませんでした。私よりも優秀なピッチャーがいた、ということもありましたし、甲子園で2度マウンドに上がり、準優勝することもできましたから」

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