ここから本文です

「拾われた男」松尾諭 #6 「方南町の親方の家で謝って、泣き疲れるまで泣いた日」

8/20(日) 11:00配信

文春オンライン

 上京してすぐに運良くモデル事務所に所属、ではなく預かりとなったからと言って、華々しい芸能生活が始まるわけはない。モデル事務所であるが故に美男美女向けの募集が大半で、三の線にはほとんどこないオーディションを待つばかりの日々が始まり、一銭もかせげないまま「役者です」とは言うものの、肩書だけではメシは食えるわけもなく、結果アルバイトをすることとなる。

彼女がいない事以外とくに不自由のない生活が、いつしか暗闇に落ちていく

 役者にとってのバイト探しは少々面倒で、オーディションや撮影、もしくは舞台のために、休みたい時にすぐに休める職場をみつけなければならない。ただしやっとみつけても、急に休んだり、長く休んだりする事が増えるにつれ職場で疎まれることもよくあるお話だが、オーディションすらもほとんどない自称役者にとっては、そんなお話は無縁である。バイトの面接で落ちることもなく、急に休みを取るどころか、いつなんどきでも仕事に入れるガッツのあるフリーター、もとい役者くんはどの職場でも重宝された。

 選んだ仕事はどの仕事もやりがいがあり、職場の方々は一部を除き面白い人ばかり。つねに2つ以上のバイトを掛け持ちし、朝から晩まで働いて、そこそこいい給料をもらって、週末になれば朝から朝まで遊んだ。役者の仕事なんてほとんどこないし、事務所からごくたまに来るオーディション受けても落ち、週に1回ある事務所のレッスンに行ってなんとなく役者であると言う気になるものの、いつしかそのレッスンよりもバイトを優先していた。東京に来てからほとんど休む間もなくバイトして、遊んで、好きなもの買って、貯金なんてこれっぽっちもなかったけど、多くの出会いがあり、彼女がいない事以外とくに不自由のない生活を送っていた。その日々はとても充実していたのだが、いつしか暗闇に落ちていく。

部屋でひとりで酒を呑む量と独り言が増えた

 当時は、朝6時に起きて作業現場でタイルを貼り、夜は新宿のレンタルビデオ店でお客様に愛嬌をふりまき、仕事が終われば部屋に帰って映画を一本観つつ就寝。そんな毎日を送っていた。ある日、いつものように部屋に帰り、ソファに横になり映画を観ながら寝るはずが、最後まで映画を観終わり、そしてなおも目は冴えていた。身体は疲れているのに、まったく寝付けなかった。その日に何かがあったわけでも、次の日に遠足があるわけでもないのに、眠気がまったく来ない。眠れなくなると、世の中の事や自分の存在意義など、どうでもいいような事を考えはじめ、そしてさらに眠れなくなった。早く寝ないといけないと思うと余計に眠れなくなり、むしゃくしゃしていると、いつの間にか朝が来ていた。タイル屋の仕事は休んだ。親方に「オーディションが急に入ったので休みます」と電話すると、「バカヤロー、頑張れよ」と応援してくれた。

 その日から少しずつバイトをサボるようになり、レンタルビデオ店の勤務シフトも少なくしていった。簡単に仕事を休めることに気づき、家で寝てばかりの時間が増えると、その分収入はどんどん減って行った。そして程なくして家計は赤字に突入し、引っ越しの時に足を突っ込んだ消費者金融の借入限度額を最大に変更した。この頃から部屋でひとりで酒を呑む量と独り言が増えた。

1/3ページ

最終更新:8/20(日) 17:48
文春オンライン

記事提供社からのご案内(外部サイト)

世の中を驚かせるスクープから、
毎日の仕事や生活に役立つ話題まで、
"文春"発のニュースサイトです。