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幼女殺害事件の宮崎勤とはいったい何者なのか 篠田博之

10/10(火) 21:45配信

創

2008年6月17日の突然の処刑

 以下に掲載するのは、月刊『創』2008年8月号に掲載した一文だ。7月7日発売のその号に連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚の手記を掲載するため編集作業をしていたさなかの6月17日に、突然、宮崎勤の刑が執行された。だから『創』のその号は宮崎死刑囚の追悼特集になってしまった。宮崎勤とはいったい何者だったのか。その問いに答えるのは、実はそう簡単ではない。以下、当時掲載された一文を再録する。

 宮崎勤とはいったい何者なのか。
 2008年6月17日の処刑によって、その謎は永遠に閉ざされたままとなった。一方には、彼は全てを計算して精神病を演じていただけだという「詐病説」がある。他方では、彼は統合失調症に冒されていたという元弁護士らの見方がある。私は、詐病説は実情を知らない見方だとしか思えないのだが、宮崎勤が精神的に崩壊していたという見方にも同調できない。
 例えば、06年に死刑が確定した時期、私は彼の2冊目の著書『夢のなか、いまも』の編集の打ち合わせのために連日のように東京拘置所に通ったのだが、その当時の彼の関心事は、この本のこと、そして確定後接見交通権が制約されることへの不安だった。そうした中で、彼が05年12月から頻繁に私に問い合わせてきたのは、06年夏のコミックマーケット(同人誌即売会)がいつどこで開かれるかということだった。05年12月のコミケについても、彼に頼まれて私はカタログを送っていた。
 当時のマスコミ報道は、死刑確定でさすがに宮崎勤も不安を感じているに違いないという思い込みから、彼があまり眠れないと発言したことを大きく取り上げたりしていたのだが、宮崎本人はそうした報道に強く反発した。私のもとへは、死刑判決の後も、コミケの締切が近いはずなので急いでほしいといった手紙が彼から届き、マスコミの期待するイメージとのギャップにしばしば驚いた。
 コミケはもちろん、オタクという言葉を社会に流通させた宮崎勤にとっては昔からの関心事だったのだが、実は05年頃から、もう少し別なことを彼は考えていたのだった。コミケのカタログに自分のメッセージを広告として載せたいという願望である。
 宮崎勤は自分の事件をきっかけに起き、その後も繰り返されたコミック規制などの動きに関心を示し、規制反対の気持ちを様々な形で文章にしていた。私の手元にも彼から寄せられた原稿が何本も残されている。そして彼はコミケカタログで自分のメッセージを訴えようとし、私に強く依頼してきたのだ。
 その経緯の中で私が関心を持ったのは、宮崎勤がその時考えたアイデアだった。彼はその広告の中で、直接自分の主張を展開するのではなく、そこに書かれたホームページアドレスに読者を誘導しようとしたのだが、その先にアクセスするとそこには宮崎勤ではなく、女性の名前で彼の主張が展開されているのであった。
 恐らく宮崎勤の名前で「子どもを本当に守るには」といった主張を行っても受け入れてもらえないという理由だったのだろうが、そこで女性に扮して文章を書くという手法が、ちょうどあの事件の時の「告白文」を思い出させたのだ。89年、殺害された幼女の自宅などへ送られた告白文では、幼い子どもを事故で失った母親が悲しみのあまり幼女を誘拐したという物語が書かれていた。これは捜査のかく乱を狙って宮崎勤が書いたものとされているのだが、宮崎本人は2審の公判でそれを自分が書いたかどうか何度も訊かれ、曖昧な答えに終始する。

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最終更新:10/10(火) 21:45

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