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熊本城、田原坂、城山 西南戦争激戦地をママチャリで往く

10/11(水) 7:00配信

NEWS ポストセブン

 1877年2月、60年振りといわれる大雪のなか、西郷隆盛率いる薩摩軍が蜂起した。熊本、宮崎で激戦を繰り広げた後、鹿児島で自刃するまでの半年余りの内戦は、140年経た現在も人々に語り継がれている。ノンフィクションライター・前川仁之氏が、西南戦争の戦跡をママチャリで辿った。

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 明治10年2月に鹿児島を発った西郷率いる薩摩軍約1万6000は、同22日、鎮台兵(明治の臨時軍政機関)が立て籠もる熊本城に総攻撃を開始した。だが加藤清正が築いた堅牢な城郭を攻略できず、鎮台兵は52日間の籠城の末、援軍との合流を果たした。その間、熊本城救援に向かう政府軍と北上を試みる薩軍主力との間で幾多の戦いが繰り広げられる。

 中でも最大の激戦地となったのが、熊本城から北西におよそ15kmの田原坂だ。

 私が熊本に到着した翌日は、朝から雨が降ったり止んだりで定まらない天気だった。「雨は降る降る人馬は濡れる」と歌われた田原坂を目指すにはちょうどいい。西南戦争の時代、陸戦の主役は人馬だ。エンジンはなくてよい。私は熊本市国際交流会館でママチャリをレンタルした。1日300円。

 籠城戦の指揮を執った谷干城の像がある熊本城正面から北上を開始。途中雨が本降りになり、レインコートを着る。しかしひどく蒸し暑いので、どうせ内側から汗で濡れるのだ。

 道中、官軍墓地2箇所と薩軍墓地1箇所で手を合わせた。官軍の方は墓石の四面に階級と氏名、所属、出身地、没年月日と場所が記され、死後もなお整然と隊列を組んでいる。一方、七本柿木台場薩軍墓地には個々の墓石がなく、大きな墓碑にまとめられていた。薩軍の側に立って戦死した「熊本縣士」8名の名が刻まれ、「外三百三名戦死之墓」とあるだけだ。

 扱いの差は歴然だが、ともかくかつての「賊軍」にも眠る所が与えられているのに安堵させられる。

 この薩軍墓地の南東の一角にある「熊本諸隊奮戦之処」という石碑の碑文が興味深い。政府軍を「東軍」、薩軍を「西軍」と呼んでいるのだ。執筆者の意図は想像する他ないが、この呼称をとると政治的な判定が失せ、両軍が対等になる。なんだか痛快だ。

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