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横浜F最後の指揮官、エンゲルスの回想「『合併』の意味を当時の僕は知らなかった』【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

10/12(木) 11:01配信

フットボールチャンネル

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

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●ドイツ人指導者には理解できなかった「合併」という現実

 1999年に消滅した横浜フリューゲルスについて、さまざまな「当事者」たちの言葉を集めて再現する当連載。第5回となる今回は、当時監督としてチームを率いていたドイツ人のゲルト・エンゲルスのインタビューをお届けすることにしたい。

 エンゲルスは今回、7月17日に行われた元浦和レッズの鈴木啓太引退試合のために来日していた。もっとも、自身が運営するスクール『サッカーライフ』の仕事で、定期的に日本に訪れては各地を飛び回っているようだ。

 エンゲルスといえば「日本語が堪能なドイツ人指導者」というパブリック・イメージがある。浦和レッズではホルガー・オジェックの後任として、京都パープルサンガでは加茂周の後任として、いずれもコーチから監督に昇格。

 実はフリューゲルスでも、シーズン途中で解任されたカルロス・レシャックの後任として昇格人事を経験している。エンゲルスにとっては、これが初めての監督就任。その直後、クラブが合併で消滅することなど夢にも思わなかったはずだ。

 フリューゲルスが存在した8年間の中で、トップチームを率いた指導者は全部で6人。初めて監督業を経験することになったエンゲルスは、図らずもフリューゲルスの「最後の監督」として、99年元日の天皇杯優勝と共にサッカーファンの間で記憶されることとなった。

 だが、今回あらためて当人に話を聞くと、優勝の喜びよりも、クラブ消滅への受け入れ難い想いのほうが、より強かったような印象を受ける。

 日本語に堪能で、日本のサッカー事情にも知悉していたドイツ人指揮官は、しかしながら企業の論理による「クラブ合併」という現実が、どうにも理解できなかった。

 地域と市民の共有財産としてクラブが存在する、フットボール大国のドイツ。さながら企業の持ち物であるかのような「球団」というフレーズがまかり通っていた、当時の日本。エンゲルスの受け入れ難い想いは、どうやらそのあたりのギャップに起因していたように思えてならない。

●ボルシアMGで挫折した若者が日本を目指すまで

 出身は、デューレンという街です。ノルトライン=ヴェストファーレン州にあって、ケルンとかデュッセルドルフとか、あとはドルトムントやゲルゼンキルヒェンが有名だけど、デューレンはオランダとの国境に近い街。

 父親は元サッカー選手で指導者だったね。僕も同じ道を歩んだけれど、僕の娘はイングランドのQPRの女子チームで、息子はフォルトゥナ・デュッセルドルフのU-19でプレーしている。まあ、フットボール一家だよね(笑)。

 僕がサッカー少年だった1970年代は、まさにバイエルン・ミュンヘンとボルシア・メンヘングラードバッハの2強時代で、僕は幼い頃からボルシアMGの大ファンだった。

 ドイツのU-18代表に選ばれたこともあって、いくつかプロクラブから誘いがあった中でボルシアMGからもオファーをもらった。迷うことなく、憧れのクラブへの移籍を決断したね。

 ギュンター・ネッツァーはすでにレアル・マドリーに移ってしまったけど、ベルティ・フォクツ、ウリ・シュティーリケ、ヘルベルト・ヴィマー、ライナー・ボンホフ 、ユップ・ハインケス、そしてデンマーク人のアラン・シモンセン。錚々たる顔ぶれだったよね。

 そんなスター軍団の中で、18歳の若造に出番が与えられるわけがない(笑)。75年から3シーズン、ボルシアMGではまったく出場機会がなかった。その間、時間を見つけては地元で子供たちにサッカーを教えていたので、指導者の道を模索するタイミングも早かったね。

 79年からはアーヘン大学に通い始めて、フランス語と歴史とスポーツを学んだ。それからスポーツをもっと科学的に勉強したいと思って、ケルン体育大学でも学ぶことにしたんだ。その間、アマチュア選手としてプレーは続けていたけどね。

 来日のきっかけは、本当に偶然だったね。大学の掲示板に、日本でのサッカーの仕事の募集があったんだ。それを見つけて「面白い!」と思ったから、すぐに応募した。

●日本語を一番学ぶことができたのはピッチ上

 あの当時(80年代の終わり)、日本はとても遠い国だったし、僕自身も日本に関する情報はほとんど持っていなかった。それでも興味を抱いたのは、ドイツとの距離感が大きかったと思う。

 フランスとかベルギーとかオランダとか、ヨーロッパでの仕事はいつでもできる。でも日本は、文化も歴史も習慣も、ヨーロッパとはまったく違う国。そこでサッカーの仕事をすることに魅力を感じた。僕の日本でのチャレンジは、そこから始まったね。

 初めて日本に来たのは90年、もうすぐ33歳というタイミングだったね。僕はアセノスポーツクラブというところでプレーをしながら、時々子供たちを教えるという仕事に就くことになった。

 アセノは、のちにプリマ(FC土浦)になって、さらに水戸ホーリーホックになるんだけど、当時は僕も茨城県に住んでいた。本当に田舎でね(笑)、最も近い都会は柏だった。土だか芝だかわからないグラウンドでプレーしていたけど、子供たちを教えるのは楽しかったね。

 日本語の勉強は、すぐに始めた。当時、アセノの選手と共同生活をしていたから、覚えるのは早かったと思う。ただ、僕が日本語を一番学ぶことができたのは、やっぱりピッチ上でのコミュニケーションだったね。

 右、左、速く、遅く、とか。たとえば「クサビ」なんて言葉、日本語学校に5年間通っても、絶対に知らなかったと思う(笑)。プレーや指導の現場で、覚えたての日本語を積極的に使っていく間に、かなり話せるようになったね。

 次の年(91年)、僕は滝川第二高校で「特別コーチ」として指導することになった。きっかけが面白くてね、デューレンで近所に住んでいた女性と日本で偶然再会したんだけど、彼女のご主人がケルン体育大学で学んだこともある人だったんだ。

 それが祖母井(秀隆)さんで、仲が良かった滝二の黒田(和夫)先生を紹介してもらった。結果として黒田先生との出会いは、僕のキャリアの中でものすごく重要なものになったね。僕にけっこう任せてくれたし、先生を通して日本サッカーについてたくさんの勉強をさせてもらったし。

●J開幕のタイミングで横浜Fへ「誇らしいことだった」

 滝二で指導していたのは、僕のプロフィールでは「2年間」となっているけど、実際には1年半。2年目の半年間、S級ライセンスを取得するためにドイツに戻っていた。

 その時に、フリューゲルスのスタッフに現地で出会ったんです。そう、(ヘッドコーチだった)木村文治さん。目的はドイツ人選手の獲得だったみたいで、日本語がわかる僕が週末に文治さんを試合に連れて行ったり、いろんな人に会わせたりしていた。

 車で移動している時は、ずっとサッカーの話ばかりしていたら「面白いやつだ」と思ったんだろうね。僕は日本語が話せるし、日本のサッカー事情もわかっている。たぶん、そういう理由でフリューゲルスからコーチのオファーをもらった。

 フリューゲルスとの契約は、93年の1月か2月から。滝二の指導もやりがいを感じていたから悩んだけれど、Jリーグ開幕のタイミングでこの仕事に就くことができたのは、僕にとって誇らしいことだったね。

 最初はサテライトのコーチだったんだけど、実質的には監督みたいなもので、強化部と直接やりとりしながら自分で何もかも決めることがあった。

 当時はまだバブルだったから、サテライトだけでけっこう人数がいたし、ジュビロ(磐田)との試合でも前泊することができたから、小さなJリーグみたいな感じだったね。

 僕のコーチ時代、よく監督が代わった。最初が加茂さん。文治さんとアントニオ・カルロス・シルバは(任期が)短かった。その後は、オタシリオ、チャーリー(カルロス・レシャック)。

●「クサビ」は知っていたけど「ガッペイ」は知らなかった

 僕は6人の監督の下で働いてきて、それぞれメソッドやフィロソフィーは違っていた。僕自身は、そんなにやり方を変える必要はなかったけれど、いろんな監督の影響は受けていたと思う。

 加茂さんは当時の日本人監督の中では最も実績があって、独特のパーソナリティがある人。オタシリオはブラジル人だったけれど、厳格なディシプリンを求める人。タイプはまったく違うけど、指導者として勉強させてもらったよ。

 特にチャーリーは、バルセロナでクライフと仕事をした人だったから、いろいろな刺激をもらったね。ただ、バルセロナのメソッドを当時のフリューゲルスに伝えるのには、ちょっと急ぎすぎたと思う。

 山口(素弘)も(三浦)淳宏もサンパイオもいたから、もう少し時間をかければ素晴らしいサッカーを披露することができただろうね。そこがとても残念。結局、チャーリーはシーズン途中の(98年)10月に解任されることになって、ヘッドコーチだった僕が監督に昇格することになった。

 チームのことも良くわかっていたし、サテライトで教えた選手たちもトップで活躍していたから、僕が最も適任者だったんだろうね。まさにその直後だよ、フリューゲルスと(横浜)マリノスとの合併が発表されたのは。

 あの日(10月29日)のことは、よく覚えている。練習場に向かう車の中でラジオを聞いていたら、ニュースでフリューゲルスとマリノスのことを伝えていたんだよね。

 試合の話題でないことはわかったけど、「ガッペイ(合併)」という言葉の意味を当時の僕は知らなかった。「クサビ」は知っていたけど(苦笑)。

 ただ、何となくシリアスなニュースであることは感じたよ。東戸塚の練習場に到着したら、たくさんの報道陣が僕のことを待っていた。そこで初めて、事態の深刻さを思い知ることになったね。

<後編につづく。文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

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