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英雄たちはどう戦った? 『南北朝』時代の戦闘方法

10/13(金) 21:10配信

エイ出版社

南北朝時代の戦い

南北朝時代というのは、足利尊氏や新田義貞といった関東系の武士が日本中を駆けずり回って戦ったのだが、楠木正成や赤松円心らの関西系の悪党も自分の拠点を中心に大活躍した。日本各地で戦闘方法が突然ごちゃ混ぜになった感じで、東西文化の衝突という側面もあるのだ。今回は南北朝時代の戦闘方法を紹介しよう。

城の用途が違う! 山城の関西、平城の関東

武士の拠点である城の考え方だ。実は関東の武士は、城をあまりつくらない。おもに関東平野で発展した武士の文化は、だだっ広い平野で効果的に戦えるように、馬に乗って弓で相手を射る、弓馬の道を尊ぶ戦だったのだ。だが、南北朝のおもな舞台となる京周辺では、同じようにはできない。京そのものは盆地であり、平坦な地形だが、周囲は山だ。京は公家が住んでいるので、たいてい武士は山がちの土地が拠点になる。

西日本の山城
山がちな関西の武士や僧は、山城を築き、戦闘用の砦として使うことが多かった。また、京の近くには比叡山や興福寺といった寺社勢力もあった。こちらも文字通りの山門なので、結局は山城。こうして、畿内は山城先進国となっていく。

東日本の平城
城をつくる山が少ない関東では、館をつくり騎馬戦がメインだった。平将門の時代から、自身の館をつくって居住し、戦うときは野戦がメイン。後の戦国時代になっても、武田信玄も今川義元も、館に住む「御館様」だ。

もちろん、これはかなり大ざっぱな見方で、関東にも城はあるし、関西にも館はある。だが、これが影響している場面も多いのだ。例えば、足利尊氏も北畠顕家も、関東から東海地方では飛ぶように高速移動を繰り返している。平地が多いのだが、その平地を押さえる平城は、この時代にはまだなく、軍事拠点が少なかったためだ。でも、畿内に入るとたちまち行軍が遅くなる。山のアップダウンが阻むだけでなく、あちこちの山城が軍事拠点として機能し、進むに進めないのだ。

関東野武士軍団 vs 関西のバラエティ軍団

鎌倉幕府の拠点でもあった関東は、権力を握り、戦争をするのは武士がメイン。平安時代に軍事貴族として発展した歴史からも、格式を重んじ、ルールを守って戦うスタイルが浸透していた。だから、大音声で名乗り合い、矢合わせをし、それから戦いはじめるという伝統的戦闘も残っていた。関西では様子がかなり異なる。幕府から遠いので、これに逆らう悪党勢力も多く、その中身もバラバラ。河内や播磨といった交通の要衝を押さえ、商工業にも食い込めた楠木正成や赤松円心がいれば、港で力を誇った海の男、名和長年もいる。ただ単に社会からあぶれた盗賊も悪党の一部だ。

関東武士の戦闘・宇治川の戦い(写真中)
平安時代末期の木曽義仲と源義経らの戦い。関東武士の戦いは、このようにルールに則ったものだった。

悪党的戦闘・千早城の戦い(写真下)
楠木正成の千早城の戦い。石を投げるだけでなく、大木や巨石を落とし、熱湯でも糞尿でもなんでも使う。逃げることも卑怯とは思わない。さっさと逃げて、また攻めればいい。関東の武士は、この戦法にとことん手を焼いたのだ。

関東の武士からすれば、ルールに則って、ボクシングの試合をしようとしていたら、いきなり、キックを浴びせられ、ついでに目つぶしや金的行為まで受ける感じで、タチの悪い格闘技を戦っているようなもの。だが、命に関わることなので、慣れるしかない。

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最終更新:10/13(金) 21:10
エイ出版社