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戦争を知らな過ぎる司令……“強い会津藩”が幻だったと分かった時

2017/12/7(木) 18:12配信

BEST TIMES

薩摩・長州両藩を中心とした「維新」を成し遂げるために、避けて通れなかったとされる「戊辰戦争」とは何だったのか。作家の星亮一さんにお話を聞き、「あの戦争」を敗れた会津藩、幕府軍の視点から考える。今回取り上げるのは、白河口の戦い・北越戦争(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆会津の命運を決めた白河口

「会津戦争で一番大事な転換点が、白河城の争奪戦。奥州街道を那須塩原の方から7~800の薩長兵が攻めてくることは分かっていた。それにどう対抗するか、だった」。

 星さんの口調が熱を帯びる。
「行ってみると分かるけど、白河城の濠は狭い。外からドンドン大砲で撃たれちゃうような城です。だから、守りの城にはならない。そこを獲り合ってもムダだった」。

 戦場慣れした新選組の隊士が、ゲリラ戦に徹して那須方面に夜襲をかければ、徴発された農民が多い薩長軍は人夫が逃げ出して補給が滞る、と提案すると、会津軍司令官の家老・西郷頼母が《卑怯なことはやらない》と否定してしまう。当然、戦意は低下する。
 対して「新政府軍は金をバラまいて、夜のうちに先鋒隊を白河城下に潜入させてしまう。城を囲む山に大砲を据えて撃ちまくる。《まるで鶏を撃つように》派手な陣羽織を狙って鉄砲で撃つ。会津軍の指揮系統がガタガタになる。そもそも西郷頼母は戦争を知らない」。

 

◆善戦した長岡の河井継之助

 それから2カ月の間、会津藩と仙台藩は白河城を奪還しようとした。だが、6月16日、新政府軍の増強部隊が平潟(北茨城市)に上陸したこともあって、ついに果たせない。仙台藩は“強い会津藩”が噂だけだったことに失望した。そして、なにより、白河城を失ったことは会津攻めを容易にした。

 江戸では、7月23日、慶喜が駿府に移住する。これで新政府軍は東北列藩同盟の制圧に全力を傾けられるようになる。
 一方、小さいながら洋式装備と訓練を取り入れた藩兵がよく戦って、新政府軍をキリキリ舞いさせていた越後の長岡藩。奇襲攻撃で長岡城を奪い還すなどしていたが、外国船をチャーターした新政府軍の補給作戦が順調に進み始め、長岡城攻略を目的として新潟港を制圧すると、家老の河井継之助が負傷したこともあって、撤退した。7月29日だった。

 越後から只見の山を越えて会津へ、白河から二本松を経て会津盆地へ、さらには北へ仙台攻略を狙うなど、新政府軍の戦略は次々にうまくいき始めた。

「《白河以北一山百文》と東北を蔑視するけど、それは戊辰戦争からなんだ。明治の廃藩置県のときに東北に来た知事や警察署長のほとんどは薩長土肥の出身者で、過酷な政策を推し進めた。まさに半植民地扱い。その後、土地の出身者も知事になったけれど、盛岡から出た原敬が総理大臣になるまで、この国は薩長に牛耳られた」。

 星さんの舌鋒は鋭い。京都守護職会津藩は、薩長の目の敵だった。

〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉

取材・文/白石宏一

最終更新:2017/12/7(木) 18:12
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