ここから本文です

日本最初の「元旦」と結びつく「神武天皇」の正体

1/4(木) 6:00配信

新潮社 フォーサイト

 

 日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。

 そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。


■神武天皇と「九州の海人」

 近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。

 一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。

 それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。

 また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。

 しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。

 たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。

 連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。

 畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。

「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」

 とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。


■「祟る神」を祀る役割

 ここで仮説を掲げておこう。

 神武と崇神は同一人物ではなく、同時代人ではなかったか。崇神天皇はやむにやまれぬ事情から、神武を九州から招き寄せて、祭司王に立てた――。

 なぜこう考えるか、説明していこう。

『日本書紀』崇神5年条に興味深い記事が載る。国内で疫病が蔓延し、半数の人びとが亡くなったというのだ。天然痘ならば、現代でも致死率は20~50%に上るから、あながちデタラメとも言い切れまい。困り果てた崇神天皇は占いをしてみた。すると神の意志(祟り)と知らされた。そして、神は「私の子に私を祀らせれば」と言うので、命じられたままに、神の子・大田田根子(おおたたねこ)を探し出して神を祀らせた。こうして、世は平静を取り戻したのである。

 この、大田田根子が怪しい。大田田根子と神武は重なって見える。どちらも「両親が神」なのだ。それだけならまだしも、大田田根子の母は活玉依媛(いくたまよりひめ)で、神武天皇の母の名は玉依姫(たまよりひめ)と、ふたりの母はそっくりではないか。大田田根子も神武も、祟る神(疫神)を祀る役割を期待されたのではなかったか。

 神の祟りなど歴史ではないと史学者は無視してきた。しかし、疫神に対する古代人の恐怖心とその伝承を軽視してはならない。


■疫神を追い払った記念日

 ここで改めて注目されるのが、「なぜ神武は纒向ではなく橿原に宮を建てたのか」、あるいは「なぜそう語り継がれていたのか」である。

 縄文時代から弥生時代への移行期、橿原遺跡(橿原市)に東北地方で盛行していたはずの土偶が集まっていた。どうやら、西から東漸してくる稲作文化をはね返す呪術を、ここで執り行っていたようなのだ。

 稲作を拒むのに、なぜまじないが必要だったのだろう。稲作民との交流によって天然痘などの未知の疫病がもたらされたからではあるまいか。

 奈良時代もそうだが、天然痘の大流行は、北部九州から始まり、東に移っていった。だから、縄文人たちは、稲作とともにやってきた疫病におびえ、奈良盆地の西側の橿原で、呪術を執り行っていたのだろう。

 崇神天皇の時代、神の祟りを鎮めるために、「活玉依媛」の子・大田田根子が連れて来られたと『日本書紀』は言うが、これは実際には「玉依姫」の子の神武天皇で、この人物でなければならなかった理由があったはずなのだ。

 ヤマト建国前後の人の流れは、これまでの常識とは逆に「東から西」で、しかも北部九州の防衛上のアキレス腱である大分県日田市と福岡平野(奴国)に東側から多くの人が入植していたことが分かっている。弥生時代後期の北部九州は大量の鉄器をほぼ独占していたが、ヤマトはこの鉄と朝鮮半島につながる流通ルートを確保しようと押し寄せたのだろう。そしてこの時、敗れた北部九州の貴種たちは、海人たちの伝手(つて)を頼って、南部九州に逃れ、これがのちに天孫降臨神話に化けたのだと思う。高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境の高千穂峰と宮崎県西臼杵郡高千穂町の2説あり)に天から舞い降りたという設定は作り話だろうから、次の一歩が大切だ。それが鹿児島県の笠狭碕(野間岬)で、ここに西九州の海人たちが、導いたのだろう。そして、南部九州の地で敗北者たちはヤマトを恨んだにちがいない。

 ヤマトにすれば、九州からやってくる疫病は、敗者の恨みと呪いそのものであって、だからこそ、南部九州に逃れた者の中から祭司王を連れてきて、これがヤマトの王家(天皇家)に育っていったのだと思う。

 神武が纒向ではなく、橿原に海人とともに陣取った理由は、これではっきりとわかると思う。神武は呪う敗者だったからこそ、ヤマトに連れて来られたのだ。

 日本最初の元旦は、疫神を追い払った記念日だったのかもしれない。

 

関裕二

記事提供社からのご案内(外部サイト)

新潮社フォーサイト

新潮社

毎日更新

月額800円(税込)

フォーサイトは有料会員制の国際情報サイトです。いま世界で起こっていることを、研究者やジャーナリストなどの専門家がわかりやすく解説。1万本以上の記事が読み放題!