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44年間、屋台でラーメンを作り続けた昭和の頑固オヤジ「最近はすぐ通報される」

1/18(木) 16:00配信

週刊SPA!

かつて日本においてその存在はごく一般的であった屋台。夜ごとリヤカーを引くその形態は庶民に親しまれ、チャルメラの音に懐かしさを感じる人も多い。しかし、この数十年で激減した東京の屋台は今や絶滅の危機に瀕し、数を正確に知る者もいないという。迫る’20年の東京五輪に向けて、屋台文化消滅の危機感を抱いたSPA!取材班は、現存する屋台の声を聞くべく、夜の東京を駆けた――。

⇒【写真】八重洲のラーメン屋台

◆上野で200食以上売ったのは俺だけだったね

 八重洲にはいくつか屋台がある。夜24時を回った頃だろうか。八重洲北口方面の薄暗い路地に入ると、いかにも“昭和の頑固オヤジ”といったふうの店主がリヤカーを引いている。店主の丹羽英明さん(仮名・70歳)だ。44年間、これまで川崎、上野、柏、八重洲と渡り歩いてきた。屋号はない。

「高校卒業後、18歳で工事の現場監督を任されて天狗になっちまったんだろうね。飲み屋で大暴れして店からは出禁、仕事もクビさ」

 スポーツ新聞の産業広告欄の「屋台ラーメンの引き手」に応募。見習い修業の後、4日目からは一人で屋台を引き始めたという。

「当時、ラーメンはちょっとしたごちそう。それで子供の誕生日に玄関先に屋台をつけてチャルメラを吹いたら、もう大好評。それから10年。そりゃあ自信もつくから自分の腕を試したくなるでしょ」

 ’80年代前半、東京で最も屋台が盛んな場所のひとつが上野駅の不忍口前だった。上野を仕切っていた親方に承諾を得た丹羽さんは、そこで勝負に出た。

「当時上野は7台屋台が出ていたんだけど、200食以上売るのは俺だけ。いい時代だったね」

 その後、上野の再開発で撤退。柏で屋台を出した後、現在の東京・八重洲に移り、8年になる。

「昔と比べて客も屋台もだいぶ減ったよ。今幼稚園を新しく建てようとすると苦情がくるのと一緒でさ、自分ちの近くで屋台をやられるのは嫌なんだよ。すぐに通報される。東京五輪を機に引退して屋台で旅をしようかと思ってるよ」

 きっぷのいい声で語る丹羽さん。地方でもその姿を見たいものだ。

― 消えゆく[東京の屋台]の今 ―

日刊SPA!

最終更新:1/18(木) 20:31
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