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本田、長友は去っても「イタリアのクラブは日本人をほしがるだろう」

3/8(木) 17:40配信

webスポルティーバ

セリエA日本人選手20年の系譜(3)

 2006年から2010年の間は、新たな日本人選手がイタリアに上陸することはなかった。しかし、その流れが再開したときに”大物”を釣り上げることになる。長友佑都だ。

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「長友が最初に移籍したチェゼーナは、決してビッグクラブではないが、優れたサッカーの伝統があるチームだった。ここで彼はすぐに頭角を現す。直接ビッグクラブに行かず、ワンステップ置いてイタリアのサッカーに慣れたことは賢明だったね。機敏でスピーディーなプレーで彼は左サイドを支配した」

 70年代からイタリアのスポーツ紙の記者を務めてきたパオロ・フォルコリン氏はそう語る。

 イタリアのクラブがそれまで獲得した日本人選手はみな、アタッカーか中盤の選手。長友はセリエA初の日本人DFだった。そして天性のフレンドリーな人柄もあって、彼はたちまちチームに、イタリアに溶け込んでいった。

 そんな長友に注目していたビッグクラブがあった。インテルだ。インテルは獲得を決断し、長友はここで日本人選手最長の7シーズンを過ごすこととなる。出場試合数は通算171試合、ゴールは9。サイドバックの選手としては決して少ないものではないだろう。

「インテルに来ても長友は明るく陽気で、真面目で物静かで内向的という、我々の持つ日本人のイメージを一気に吹き飛ばしてくれた。ゴール後にチームメイトとお辞儀をするというパフォーマンスは一世を風靡したね。

 悪童アントニオ・カッサーノと冗談を飛ばし合い、今は副会長を務めるインテルのレジェンド、ハビエル・サネッティとも親友になった。イタリア語もとてもうまかったし、歴代の日本人の中でも、一番イタリアに溶け込んだ選手だったんじゃないかと思うよ」

 そして2014年には、インテルのライバル、ミランにもう1人の日本人がやって来た。本田圭佑だ。

「それまでの日本人選手は、イタリアに来るまでほとんどその存在が知られていなかったのに対し、本田はすでに有名だった。世界に通用するレベルの選手と、サポーターはその加入を歓迎したものだ」

 イタリアを代表するビッグクラブといえば、やはりユベントス、インテル、ミラン。そのうちの2チームに日本人の選手が所属するという状況は、1990年代と比べると隔世の感があった。

「本田は何においてもスターだった。常にエレガントで、どんなときでも完璧で、ピッチではそのパーソナリティを強く感じさせた。彼は栄光の背番号10を希望した。たぶんそれだけの気概を持ってミラノにやって来たのだろう。しかし残念ながら、時期が悪かった」      

 かつてイタリアサッカー、いやヨーロッパサッカーを牽引していたミランだったが、近年は低迷し、本田の所属していた3年半の間に監督が7人も入れ代わった。

「次々と代わる監督たちは、本田をうまく使いこなすことができなかった。彼はトレクァルティスタ、つまり2トップの後ろにいるときに力を発揮する。しかし彼がミランでこの本来のポジションでプレーすることは稀だった。ポジションにおいて、彼は監督の指示を尊重したが、何か重要なことを言わなければいけないときは決して後へは引かなかった」

 監督のヴィンチェンツォ・モンテッラが本田をベンチに押しやったときも、彼はその境遇を粛々と受け入れ、決して不平を漏らしてチームの和を乱すようなことはなかった。しかし契約から解放されるや否や、彼はチームを去っていった。

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