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就職面接で「致命的な失言」 上京した富士そば創業者、わずか3日で悲惨な帰郷

6/24(日) 7:20配信

NIKKEI STYLE

 立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第5回は東京での就職失敗を振り返ります。
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■面接受けに、憧れの東京へ

 「お母さん、東京に行かせてください」

 三河屋をやめた後、私は故郷の大保木(おおふき)村に戻りました。土木関連の仕事などをやってみたものの、地元での生活は金魚鉢の底にいるようなもの。息苦しさを感じる毎日、東京へのあこがれは募っていきました。田舎と違って、大都会の東京には自由があり、成功するチャンスもいっぱいあるはず。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなくなったのです。

 母は猛反対しました。当時、四国から都会に出るといえば、大阪が一般的。大阪を飛び越して、東京に行くなんて、もってのほかです。今日のように交通が発達していなかった時代ですから、東京に行かせたら、もう二度と会えないと思っていたのかもしれません。

 東京行きは近所の人にも反対されました。ただ、私も闇雲に東京に行きたいと言い張っていたわけではありません。

 中学時代の恩師、伊藤始先生に相談しました。先生は東京在住。知り合いを通じて、働き口を紹介してもらい、後は私が面接を受けるだけになっていました。粘り強く説得し、最後にとうとう、母は涙を流しながら、首を縦に振ってくれたのでした。

 1953年春、初めての上京に期待と不安を抱きながら、見送りが誰もいない西条駅のホームに立ちました。線路の向こうには夢が燃えています。香川の高松駅行きの列車に乗り込み、席に着いて車窓を眺めていると、母や友人たちの顔が思い浮かんできました。

 高松からはフェリーで瀬戸内海を渡り、岡山の宇野港まで1時間。船内では1杯20円のうどんをすすりました。宇野港に着くや、乗客全員が駅に向かって駆け出しました。東京行きの夜行列車の座席を確保しようと、必死です。通路まで人でびっしり。幸い座れた私は大阪を過ぎたあたりで眠りにおちました。

 夜が明けて、目を覚ますと東京でした。車窓から見た初めての大都会は建物がびっしり、ホームには大勢の人、人、人。終点が近づくにつれ、不安に駆られていきます。東京駅には伊藤先生が迎えに来てくれていることになっていました。

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最終更新:6/24(日) 7:20
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