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中国の路地裏を歩いて見つけた「憧れのニッポン」

7/20(金) 18:10配信

PHP Online 衆知(Voice)

約20年間で、50カ国ほどを歩き回ってきた取材生活の「集大成」として、このたび『世界の路地裏を歩いて見つけた憧れの「ニッポン」』(PHP新書)を上梓したノンフィクション作家の早坂隆氏。今回、その「特別編」として「中国編」をおくる。

中国人は友人か兄弟か

日本にとって、中国は良くも悪くも大きな存在である。中国を無視して外交や経済を語ることは難しい。そんな両国の関係性を表したこんなジョークがある。

中国人が日本人に言った。
「中国は日本にとって大切な友人ということになるだろうね」
日本人が答えた。
「いや、友人というより兄弟というべきだろう」
それを聞いた中国人は、満足そうにうなずいて言った。
「なるほど。本当にそうですね」
日本人が言った。
「友人は選べるけれど、兄弟は選べないからね」

新聞やテレビにも、中国の話題が上らない日はないと言っていい。しかし、そんな特別な存在でありながら、実際の中国の人々の「生の声」は意外と聞こえてこない。
私は取材で中国を何度も訪れているが、初めて彼の地を踏んだのは、まだ北京オリンピックが開催される前の2006年のことであった。
当時の北京の街は、オリンピックに向けてあちこちで大規模な開発が進められている最中であった。「胡同」と呼ばれる古い街並の多くが、無惨に取り壊されていた。
「オリンピックで中国は一変します。日本を一気に追い抜きますよ」
普段は概して愛嬌に乏しい中国人たちが、オリンピックの話題になると興奮気味に相好を崩した。日本にもかつてあったのであろう、国民全体が前を向いているような雰囲気に包まれた時代であった。

盧溝橋を歩く

日中関係を語る上で、近代史の話題は欠かせないものとなる。
大東亜戦争と言えば、太平洋の島々での玉砕戦や、東京大空襲、そして原子爆弾の投下など、アメリカとの戦争という面がまず想起されるであろう。
しかし、最大の主戦場は中国大陸であったとも言い得る。昭和20(1945)年8月の敗戦時、太平洋戦線に派兵されていた日本軍の将兵の数は約81万人。一方、中国戦線には約105万人が駐屯していた。大東亜戦争の中核は、実は日中戦争であった。
そんな大戦の発端となったとされる地を私は訪ねてみたいと思った。北京の南西、約18kmに位置する盧溝橋である。
北京の市街地から私はタクシーに乗った。30分ほど郊外に向かって走ると、車は目的の地に辿り着いた。運転手の中年男性はこう言う。
「日本から来たのか? 日本人はたまに来るけど、みんな礼儀正しいし、お金もきちんと払ってくれるから好きだよ。歴史のことは私は詳しくは知らない。でも、日本人こそ歴史に全く興味ないって、中国のテレビではよくそう言っているけれど、どうなんだい?」
昭和12(1937)年7月7日の夜、盧溝橋近くに駐屯していた日本軍は、中国側に通知した上で夜間の軍事演習を行なっていた。この地に日本軍が駐留していたのは、明治34(1901)年に調印された北京議定書(北清事変に関する最終議定書)に基づく。
この軍事演習中、中国軍から数発、続いて十数発もの実弾が発射された。日本側もやむを得ずこれに応戦。結果、両軍は小競り合いの状態に突入した。その後、一旦は停戦が成立するなど様々な局面があったが、結局、両国は全面戦争へと陥っていく。
そんな歴史の転機となった場所に私は立っていた。橋の入り口で入場料を払う。漢白玉石製の橋は、徒歩か自転車でしか入れない。欄干には獅子の石像が無数に飾られている。もとより盧溝橋は13世紀にマルコ・ポーロが訪れ、「世界中で最も美しい橋」と賞したとされる橋である。
橋の東側には城壁が広がるが、そのあちこちに日本軍による砲撃の跡が残っている。
1人の老人に話を聞いた。老人は片言の日本語でこう口にした。
「シチ、シチ、ニホン、ワタシ、ジュウニサイ」
「シチ、シチ」が「七・七」を意味していることはすぐに理解できた。中国では盧溝橋事件のことを、その起きた日付から「七・七事変」と呼ぶ。老人は盧溝橋事件の当時、12歳だったのであろう。
その近くにあった市場では、『覚醒 日本戦犯改造紀実』と題された写真集が平積みになって売られていた。ページをめくると、頭蓋骨が山のように積まれていたり、生首が吊るされているものなど、近年の研究によってその信憑性が強く疑われている写真が多く掲載されていた。

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