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【連載 名力士たちの『開眼』】小結・豊山広光 編 土俵で得た教訓を人生に生かすも勝負のうち[その2]

8/10(金) 12:50配信

ベースボール・マガジン社WEB

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】向学心に燃えて新潟から東京農大に進学した豊山だったが、学生と相撲部の選手と夜警という、一人三役の生活を余儀なくされた。一方、高校時代からライバル視する日大の輪島は、好きなように食べ、好きなだけ稽古することでタイトル数を増やしていた――

苦学中に身に付けた人生哲学

 いよいよあと半年でこの学生と夜警の二重生活も終わる。卒業後の豊山の選択肢は2つあった。学校の先生になるか、輪島と同じように大相撲の世界に入るか、だ。
 熱い希望に燃えている子どもたちを教えたい、というのは、4年前に新潟から上京してきたとき、豊山が抱いてきた夢の一つだった。しかし、この4年間に、このままスンナリと先生になるわけにもいかないものが芽生え、育っていったのも確かだった。
 学業を支えるためのアルバイトに時間や精力を取られ、まだ大好きな相撲がやり足りなかったのだ。
 この不満を解消し、しかも輪島に借りを返すには、プロに入るのが最も自然な選択だった。
「よし、オレも入門しよう」
 と豊山が決意したのは、輪島のプロ入り表明からそう時間は経っていなかった。すでにこの気配を察して、10本の指に余る部屋から入門の誘いが来ていたが、ここでも、豊山は先輩の率いる時津風部屋を選ぶのにそう大して時間はかからなかった。

 ただ、この名門部屋への入門を決めたとき、豊山は一つの条件をつけた。学生相撲出身者たちは、一般の新弟子と違って、誰でも入門するとき、プロ野球の契約金とは比較にならないまでも、大なり小なりの”厚遇”を得ている。
 しかし、豊山は、
「プロというのは、自分で汗をかいて、自分で道を開き、自分で地位を築いていくところ。入る前に、そんな代償を求めるようでは気持ちに甘えが出て、かえって失敗する」
 と、たとえ一銭のお金でも受け取ることを拒否したのだ。それはまた、一切の下積みの雑用から解放され、親方の部屋で食事をし、親方のクルマで場所入りする、という超VIP待遇を得ている輪島への対抗意識の表れでもある。
 無ほど強いものはない。これが豊山が苦学中に身に付けた”人生哲学”だった。
 昭和45年(1970)春場所、豊山は幕下付け出しでプロの土俵を踏んだ。輪島よりも初土俵が1場所遅れたのは、向こうが12月の全日本選手権を終えるときにさっさと入門したのに対し、こちらは、
「オレはキャプテン。その責任を途中で放り出すわけにはいかない」
 と、翌年1月の高知大会が終わるまで延ばしてもらっていたからだった。このへんにも、二人の性格の違いがよく表れている。
 ただ、過程や、内容よりも、白か、黒かの結果をなによりも優先するプロの世界では、この豊山の律儀さや、責任感は、ある意味でマイナスだった。このことを、豊山はあとで痛切に思い知らされることになる。
 つまり、ここでは土俵に上がっているときの評価がすべてで、朝から晩まで全力投球する必要はない。結果を伴わない努力は全く無意味なのだ。
 輪島はそのことを本能的に見抜き、ここ一番の勝負どころでは異常なまでの集中力を発揮したが、いったん土俵を離れると、実にドライで、要領が良く、またちゃらんぽらんだった。
 しかし、入門すると、自ら進んで中学を卒業したばかりの新弟子たちに混じってトイレの掃除から始めた豊山に、輪島の真似をしろ、というのは、およそ無理な要求だった。

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