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鈴鹿F1日本GP。「セナ・プロ対決」は感情むき出しのドラマだった

8/10(金) 7:48配信

webスポルティーバ

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 1987年から開催されている「鈴鹿F1日本GP」が今年で30回目を迎える。過去の歴史を紐解けば、舞台となった鈴鹿サーキットでは幾多の名バトルが展開された。10月5日~7日に行なわれる30回目の鈴鹿F1日本GPを前に、その懐かしい思い出の数々を振り返ってみたい。

【写真】日本の怪物マシンがタイムスリップで出現

■F1日本GP「伝説の瞬間」(1)
因縁・接触のセナ・プロ対決(1988年~1990年)

 鈴鹿F1日本GPの歴史は、まさに「セナ・プロ対決」の歴史でもあった。

 まだ新進気鋭の若手だったアイルトン・セナがマクラーレンに加入し、すでに2度の王座を獲得していたエースのアラン・プロストを凌駕する速さを見せたのが1988年。驚異的な速さの「天才」セナと、緻密な計算で「プロフェッサー(教授)」と呼ばれたプロスト――。対極的なふたりによる世代を超えたハイレベルなバトルに、世界中が酔いしれていた、そんな時代だった。

 ウイリアムズからマクラーレンへと供給先をスイッチしたホンダとともに、マクラーレン・ホンダのふたりが16戦15勝という驚異的な速さを誇ったこともあり、日本でのF1人気は沸騰していた。鈴鹿にとって2年目の1988年の第15戦・日本GPは、そんなシーズンのハイライトとなった。

 セナがスタートでまさかのストールを喫するものの、鈴鹿のメインストレートの下り坂を利用し、押しがけの要領でなんとかエンジンを再始動してレースに復帰。14番手から前走車たちを次々に抜き、最後にはプロストまでをも抜き去って、劇的な逆転勝利で自身初のワールドチャンピオンに輝いた。

 それはあまりにも天才的で、あまりにも劇的な「新時代誕生」の瞬間だったと言える。セナ自身が「神を見た」と語ったように、その走りは神がかっていた。そして、その舞台となった鈴鹿もまた、神がかったドラマを生み出す聖地とみなされるようになった。

 翌1989年は、プロストが優勢だった。

 コンビ初年度は好敵手と言ってもいいふたりだったが、この年の第2戦・サンマリノGPで「スタート直後の1コーナー以降はしばらくバトルをしない」というチーム内の紳士協定に反してセナがプロストを追い抜いたことに端を発し、最速の座を巡るふたりは互いに口もきかないほどの険悪な仲となる。当時F1を統括していたFISA(国際自動車スポーツ連盟)のジャン=マリー・バレストル会長がプロストと同じフランス人ということもあって、政治的な要素も絡み合い、シーズンを経るなかでドロドロとした確執は深まっていった。

 鈴鹿で勝って最終戦にタイトル争いを持ち越したいセナと、セナが勝たなければ自身3度目のタイトルが決まるプロスト。そのふたりの置かれた状況差が、鈴鹿に挑む姿勢となって表れた。

 ドライバーズサーキットの鈴鹿で、セナは芸術的な走りを見せてポールポジションを奪う。対するプロストはコーナリングでセナに対抗することはやめて、ウイングを寝かせてストレート重視で戦う。スタートで出遅れたセナはレース終盤の47周目にようやくプロストを追い詰め、シケインでインに飛び込む。

 その瞬間、2台はもつれ合うように接触――。

 その場でタイトル獲得を確信してマシンを降りたプロストに対し、セナはフロントウイングを失いながらも走り続け、ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニを抜き去り、トップでチェッカードフラッグを受けてタイトル争いの望みを最終戦につないだ……はずだった。

 ところがレース終了後に、セナには失格の裁定が下った。接触直後にシケインのランオフエリアから直接最終コーナーへとアプローチし、シケインをカットしたというのがその理由だった。だが、シケインを逆走してコースに復帰するというのは常識外れであり、マシンを降りてコントロールタワーに駆け込んだプロストとFISAの政治色もにじむ裁定だった。セナがインに飛び込んだ際のプロストのターンインが通常よりも早く、セナのマシンに寄せていくようにも見えた。

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