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「関ケ原」がいまだ専門家の間で議論される背景と3武将と神社仏閣の関係〈dot.〉

9/15(土) 7:00配信

AERA dot.

 日本には様々な記録文章が残されているが、つねに歴史の真実が伝えられているとは言いきれない、と思う。ほんの400年ほど前のことですら、のちの為政者や関係者、時には庶民によってあちこちが脚色され、話が膨らんでしまっている。教科書でも取り上げられている関ケ原の戦も例外でなく、今なおいろいろな逸話が訂正されたり、異説が唱えられたりしている。旧暦・9月15日は徳川家康が天下分け目の関ケ原の戦に勝利した日である。

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●勝者が描いた関ケ原

 天下分け目の大戦と言いながら、数万人同士の戦いが半日で決着したというのも異例なことであるし、主君である豊臣秀吉の死からわずか2年後に、秀吉の五大老であった徳川家康と五奉行の一人であった石田三成が敵味方となって戦うことになった原因など、さまざまな面において歴史家たち研究者たちの議論はつきない。

 とはいえ、勝者である家康(徳川方)によって描かれた歴史は、人々の娯楽の中で広まり定着していった。

●神になりそこなった天下人

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の武将は、江戸時代に詠まれた有名な川柳「ホトトギスと3人の天下人」に代表されるようにさまざまな場面でよく比較される。

 実は3人は“神”としても知られている。織田信長に関しては自らが「第六天」を称していた──という伝聞だけによっているが、秀吉は「八幡神」として祀ってほしいという遺言を残しているし、家康は「東照大権現」として各地にお宮を持っている。

 もちろん、家康以外はそのあとに続く天下人が前人を否定するわけで、秀吉は「第六天」のお宮をことごとく廃したし、家康は秀吉を八幡神としなかったばかりか、「豊国大明神」という神号も豊臣家滅亡後に剥奪してしまう(明治時代に再興)。

 かくいう家康を祀る東照宮も、神仏混淆の社であったため明治時代に入り神社化できなかった各地の社の、かなりの数が廃絶となってしまったのではあるが。

●戦勝記念に社殿などを奉納した家康

 家康は、信長や秀吉の宗教に対する扱いを見てよくないと感じたためか、また三河治世時代にあった“一向一揆”に手を焼いたことなどもあり、2人に比べて江戸開府当初は宗教に対してかなり寛容な態度を見せている。加えて家康自身も多くの寺社と縁を結んだ。家康が戦地に持っていったと言われる仏像は、現在芝・増上寺の安国殿に黒本尊として祀られているし、愛宕神社は勝軍地蔵菩薩(ぼさつ)を家康が勧請し創建したお宮である(神仏分離令により現在は愛宕の真福寺に地蔵菩薩は鎮座する)。関ケ原の戦い出陣の際、必勝祈願したとされる品川神社には、勝利のお礼として「天下一嘗の面」を奉納、駿河国一宮である富士山本宮浅間大社には戦勝記念として、現在世界遺産の構成資産として知られる社殿を造営・寄進している。

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最終更新:9/15(土) 10:59
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