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映画『否定と肯定』でわかったホロコースト否定論者と戦うことの難しさ[橘玲の世界投資見聞録]

11/8(木) 22:05配信

ダイヤモンド・ザイ

 2017年に日本で公開されたイギリス・アメリカ合作映画『否定と肯定』は、イギリスの歴史学者デイヴィッド・アーヴィングから訴えられたアメリカのホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットと弁護士たちの法廷闘争を描いている。すでにDVDになっているから、観たひとも多いだろう。

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 この映画が注目される背景に、トランプ大統領誕生があることは間違いない。トランプを熱烈に支持する白人至上主義者の多くはフェイクニュースを信じる「陰謀論者」であり、(ユダヤ系の支配する)マスメディアはウソばかり報じ、ネットに流通する偏向した主張こそが真実だと思っている。そのうえ、どれほどそれが事実に反していると説明してもいっさい気にしない。

 こうした態度は、ホロコーストを否定するひとたちとものすごくよく似ているのだ。

「否定に肯定を対置してはならない」

 映画『否定と肯定』の邦題には問題がある。原題の“Denial(否定)”にどういうわけか「肯定」を加えているのだ。なぜこのようにしたのかはわからないが、これによって映画のテーマが大きく損なわれている。

 映画の原作となったのはリップシュタット自身が裁判体験を記録した“DENIAL Holocaust History on Trial(否定 裁判にかけられたホロコーストの歴史)”だが、この邦訳本も(映画に合わせての発売だから仕方のないことだが)『否定と肯定』(ハーパーBOOKS)とされている。

 裁判の原因となったのはリップシュタットが1993年に発表した“Denying The Holocaust(ホロコーストを否定する)”の記述で、こちらは『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』(恒友出版)のタイトルで邦訳されている。このいずれにも“Deny”が使われていることからわかるように、この言葉には著者の強い主張が込められている。

 「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というような主張は、一般に「歴史修正主義(Historical revisionism)」と呼ばれるが、リップシュタットは、歴史家の仕事は通説を見直す=修正することにあるのだから、この呼称は適切ではないとする。

 エルヴィス・プレスリーは1977年に42歳の若さで世を去ったが、その死因については過食やドラッグの乱用、心臓病などさまざまな説がある。しかしその一方で、あまりに若すぎる死を受け入れられない熱烈なファンがいる。1990年代の世論調査によると、「エルヴィスはどこかでひっそりと生きている」という伝説を信じているのはアメリカ人のなんと2割もいるという。

 この例では、エルヴィスの死因をドラッグ乱用とする通説に対して、毛髪などのDNA解析によって遺伝性の心臓病が原因だとするのが「歴史の修正」だ。それが正しいかどうかは別として、新たな知見によって歴史は更新され、修正されていく。

 それに対して、「エルヴィスは生きている」というのは歴史=事実の否定だ。修正論者とは大いに論争すべきだが、否定論者と議論することにはなんの意味もない。彼らはたんに「もういちどエルヴィスに会いたい」という夢を見ているだけで、死亡の証拠をいくら並べたところで見たいものを見るだけだ。

 自由な社会では、事実であるかどうかにかかわらず、どのような主張をするのも自由だ。「エルヴィスは生きている」という夢を見るファンの権利を他者が侵害することはできない。

 そしてこれは、ホロコースト否定論者についても同じだと、自身がユダヤ人であるリップシュタットはいう。ドイツのようにホロコースト否定を法で禁じているところもあるが、言論の自由が憲法で保障されたアメリカでは、「ホロコーストはなかった」と主張する者たちの活動を公権力が規制することはできないし、そうすべきはない、というのが彼女の立場だ。

 だったら何が問題なのかというと、歴史の修正と否定を同列に並べて、「否定派にもホロコーストについて議論する権利がある」とするひとたちがいることだ。彼らはネオナチや極右というよりも、多くの場合リベラルなマスメディアだ。

 メディア関係者は視聴率目当てに、リップシュタットとホロコースト否定論者を対決させる企画を持ち込んでくる。そのときの根拠がリベラリズムで、「異説を拒絶するのではなく、事実でもって誤りを指摘すべきだ」ということになる。

 これは一見正論だが、否定論者は自説を撤回するつもりはなく、こうした番組やイベントを自分たちのPRの場としか考えていないのだから、そのようなところに出ていく理由はない。リップシュタットは「ホロコースト否定論者を批判するが論争はしない」を原則としており、だからこそアーヴィングに訴えられて、裁判の場に引きずり出されることになった。その映画の邦題を『否定と肯定』にしてしまっては、「否定に肯定を対置してはならない」というリップシュタットの主張を、それこそ否定してしまうのだ。

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