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遊女に勝てなかった吉原芸者の憂鬱

11/9(金) 13:36配信

BEST TIMES

江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

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■吉原芸者あれこれ。

 江戸の芸者は、吉原芸者と町芸者に分けられた。

 吉原以外の遊里や盛り場などで営業する芸者を総称して、町芸者といった。もちろん、吉原芸者の方が町芸者より格が上だった。

 吉原芸者も大きくふたつに分けられた。

 大きな妓楼になると、芸者をかかえていた。これを、内芸者といった。

 いっぽう、揚屋町の裏長屋などに住み、見番に登録している見番芸者がいた。見番を通じて、妓楼の宴席などに呼ばれる。

 図1は、見番芸者が妓楼におもむくところであろう。黒い箱をかついでいるのは若い者で、なかには三味線がはいっていた。

 第9回『深夜、宴席の残飯をあさる遊女の切実さ』の図1に、宴席で三味線を弾く芸者が描かれていた。このように、芸者はあくまで脇役だった。

 戯作『仮名文章娘節用』(曲山人著、天保2年)に、吉原の芸者が――

「わたくしはまた、座敷ばかりの、はかない芸者の身の上ゆえ、たとえどのような訳あっても、芸者は抱えの女郎衆には勝たれぬが廓のなわわし」

 と嘆く場面がある。

 遊里では、とくに吉原では、遊女の方が芸者よりも身分が上だった。芸者は遊女には勝てなかったのである。

 芸者は出しゃばってはならなかったし、客の男と寝るなどもってのほかである(しかし、裏茶屋などで忍び合うのはやまなかった)。

 

■幇間(ほうかん)

 幇間は太鼓、太鼓持、男芸者ともいい、芸者と同様、妓楼などの宴席に出て、芸を演じたり、面白おかしい話をしたりして座を取り持つ。

 やはり揚屋町の裏長屋に住んでいて、呼ばれて妓楼などに出向いた。

 落語家が自分の職業について、

「利口ではできません。馬鹿ではもっとできません」

 と述べるジョークがある。

 幇間という職業にも当てはまるであろう。

 いつの時代にも、威勢のある人、金のある人には取り巻きや、腰巾着などという、いわば幇間的な人間が付いてまわる。だが、職業ではない。

 幇間が職業として確立したのは宝暦(1751~64)以降といわれる。ということは、揚屋制度がなくなり、太夫の称号も廃止されたのと一致する。

 客は直接妓楼にあがり、そこで酒宴を楽しみ、さらに床入りもするようになった。こうしたことが幇間の需要を高めたのだろうか。

 幇間には、武士の次・三男や、商家の若旦那などで、遊びで身を持ち崩した者が少なくなかったようだ。また、盛りを過ぎた陰間が幇間に転身することもあった。

 吉川英治の小説『松のや露八』のモデルになったのは、明治時代の幇間、松廼屋露八である。

 松廼屋露八は武士の家に生まれ、彰義隊に参加した経験もあった。

 図2は、妓楼の廊下で、幇間が遊女に伝えている――

「もしもし、おいらん、かの客人が参ります」

「かの客人」は、幇間にとって大事な旦那なのであろう。旦那の機嫌を損ねないよう、いわば根回しをしていることになろうか。

 なお、独特な風習があった深川では芸者を羽織、幇間を太夫と呼んだ。また、深川では芸者が転ぶ、つまり金をもらって客と寝るのは常識だった。

文/永井 義男

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