果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
あのときのことを思うと、いつも富士櫻(初土俵時の四股名は本名の中澤、3場所目に富士櫻と改名。ここでは富士櫻に統一)は、苦いものがこみ上げてきて口中に広がった。それほどまんまとしてやられたのだ。
それは富士櫻が甲府市の西中学を卒業する直前のことだった。同じ年齢で、のちにプロ野球界入りし、巨人のエースになった同じ甲府市内の南中学の堀内が、生意気で、小天狗とか、悪童とか、と言われたように、富士櫻も怖いもの知らず。体も身長175センチ、体重77キロと周りの同級生に比べると明らかにひと回り大きく、
「オレは大男なんだ」
と、頭から信じて疑わない少年だった。このため、同じ山梨県出身の幕内力士、富士錦(6代高砂親方、最高位は小結、昭和39年名古屋場所に平幕優勝している)が、人づてに富士櫻のことを聞いて、
「どうだ、力士にならないか」
とスカウトに現れる前から、もうこの甲府盆地から打って出る気十分。こんな富士櫻のはやる気持ちを見透かすしたように、わざわざ羽織、袴の正装でやってきていた富士錦は、
「オレだって、このくらいの身長しかないんだから。君なら大丈夫。絶対やれるよ。ホラッ、見てごらん」
と富士櫻の横に立った。なるほど、そっと横目で見てみると、確かに自分より小さいくらいだ。
「なあんだ、力士といったって、ホントにたいしたこと、ないんだ。ようし、やってみるか」
この背くらべが富士櫻の心をさらに大きく揺り動かした。このとき、富士櫻は、まさかこの富士錦が袴の中でヒザを曲げていたとは、思いもよらなかったのである。
入門は昭和38年(1963)春場所。部屋の入り口を潜ってすぐ、富士櫻は郷土の先輩にうまくハメられたことに気付いた。周りを見渡すと、「大きい」と思っていた自分が、実は一番小さいことが分かったからだ。しかし、富士錦を捕まえて文句を言ってみても、すでに時遅し。船は港を離れたあとだった。
その上、腕力も弱ければ、器用でもない。故郷ではお山の大将だった富士櫻は、あっという間に天狗の鼻をへし折られ、自分にはなんの特技もない。八百屋の店先に並べられている一山いくらの野菜か、果物なのに気付いた。
最終更新:2018/11/16(金) 17:21
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