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グラウンド燃やして強制乾燥も…高校野球の記録写真で見る100回史〈週刊朝日〉

12/7(金) 7:00配信

AERA dot.

 今年8月の大会で100回を迎えた「夏の甲子園」。記念に刊行される『全国高等学校野球選手権大会100回史』(完全予約販売。12月15日予約締め切り。朝日新聞出版刊)に収録される写真の中から、今ではもう目にすることのできない、古き良き日本の高校野球にまつわる風景をご紹介しよう。

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 朝日新聞大阪本社の倉庫に、“眠っていた”高校野球関連の記録写真がある。戦前に撮影されたものがほとんどで、近年になって続々と発見されたのだ。フィルムもなく、紙焼きだけかろうじて残っていた一枚もある。今春には戦前最後の大会となった第26回(1940年)を記録した超お宝写真が見つかった。準々決勝の海草中‐京都商戦、バックスクリーンを中心に9カット撮影したパノラマ(つなぎ)写真には右翼から左翼まで超満員の外野席の様子がおさめられ、和装や洋装、カンカン帽など観客一人ひとりの姿がはっきりと映し出されている。約80年前の庶民の暮らしを切り取った貴重な資料だ。こうした写真群が『全国高等学校野球選手権大会100回史』の構成を支えている。ビジュアル面を重視した誌面は、約3千枚の写真を掲載する予定だ。

 写真の編集作業をしていると発見と驚きの連続。見ていて実に楽しい。

 なかでも応援風景は、現代では考えられない場面が切り取られている。野球熱が高まった第9回、まだ会場が鳴尾球場だった時代、試合を見たくて電柱によじ登るファンが現れる。この大会では、観客がグラウンドになだれこむ事態も発生し、「もう少し大きな観客席があったら」という要望があがり、翌年の甲子園球場の完成につながった。

 第12回には野球実戦速報機「プレヨグラフ」が登場。甲子園から電話で届く試合経過を再現する。ストライク、ボールだけでなく変化球や盗塁も表現できるという優れもの。今でいうと一球速報のようなものが戦前に存在していたのだ。

 第17回、内野のグラウンドからモクモクと黒煙が上がる。これは爆撃でも火事でもなく、なんとグラウンド整備の写真。完成当時の甲子園球場は水はけが悪く、雨が降るとたちまち水たまりができた。昭和初期まではその対策として内野にガソリンをまいて燃やしてグラウンドを乾かしていたのだ。あまり効果がないから、すぐにやめたとか。

 第26回、四国大会の応援席には、今となっては貴重な人物を確認できる。かつて「やまびこ打線」の池田(徳島)を率いて一時代を築いた蔦文也監督の父親だ。当時、徳島商の投手として第26回の全国大会に出場した。その代表を争う四国大会で、徳島商応援団にまじってわが子を見守る蔦パパの写真が出てきた。どうして撮ったのか、謎だ。

 歴代の応援席を彩ってきたのが“人文字”。その先駆者はPL学園(大阪)、というイメージが強いが、同校が初出場するより前に、人文字応援をしていた学校を発見。第43回、浪商(大阪)の応援席に「N」の文字が浮かび上がる。現存する写真の中で確認できる最初の人文字だ。ちなみに現存する写真の中で確認できる最初のチアリーダーは、第38回の滑川(富山)の生徒。元気いっぱいの女子高生は今も昔も同じ。はつらつとした姿が見て取れる。

 優勝凱旋パレードの写真も興味深い。昭和の時代は、優勝校の地元凱旋は街を挙げてのお祭り騒ぎだった。地元に明るいニュースをもたらし、活気づかせることもあった。その代表例が第47回、三池工(福岡)の優勝。三池炭鉱の労使紛争に爆発事故と、暗い雲が覆っていた街をいっぺんに明るくさせたのが三池工ナイン。パレード沿道は赤いオープンカーに乗ったナインを一目見ようと市民で埋め尽くされ、一説では人口20万人の大牟田市に35万人がかけつけたといわれている。写真には、熱狂する市民の様子がリアルにおさめられている。

 高校野球は、いつの時代も世相と密接に関係しており、球史の記録は昭和史をはじめ、大正史、平成史を伝える貴重な資料ともいえるだろう。(「100回史」編集室・内山賢一)

※週刊朝日  2018年12月14日号

最終更新:12/7(金) 10:04
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