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小林秀雄とは何者だったのか? 沢木耕太郎による作家論

12/6(木) 14:00配信

現代ビジネス

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ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏はこれまで何人もの作家と出会い、「対象」としても徹底して向き合ってきた。このたび沢木氏の作家論集『作家との遭遇 全作家論』(新潮社)が刊行された。その中から、小林秀雄に関する文章を特別公開! 
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 虚空への投擲

小林秀雄にとっての「スポーツ」

 小林秀雄の文章には、香具師の啖呵のようなところがあり、眼で読んだだけのはずなのに、いつまでも耳に残っているようなものが少なくない。「様々なる意匠」にも、「Xへの手紙」にも、「ドストエフスキイの生活」にも、「モオツァルト」にも、「ゴッホの手紙」にも、そうした文章はある。

 しかし、私が小林秀雄という人物について考えるとき、まず思い浮かべるのは、「スポーツ」と題された短いエッセイの、冒頭の部分である。

 《私は、学生のころから、スポーツが好きだった。身体の出来が貧弱だったから、スポーツ選手にはなれず、愚連隊の方に傾き、いつの間にか、文士なぞになってしまったが、好きなことは今でも変らない。先年も、里見弴氏の還暦のお祝いに野球大会があったが、野球と聞くと、ノコノコ出かけて行く。三十年もボールを手にしたことがないなど、念頭にないのである。石川達三がヘロヘロ球を投げる。大体、ストライクもボールも選ぶ値打ちのあるような球ではなし、打てばいいんだろ、と第一球から、つづいて三度振回したが、球にかすりもしない。見ていた奴が、バットとボールとが一尺は違っていたと言った。その他、なにやかや、つまらぬことばかりやって、珍プレー賞と書いたウィスキーをもらった。こんなことを今いっても、だれも信用しそうもないが、三十年前には、巨人の水原監督と一緒に、第一回都市対抗戦で、神奈川県代表の鎌倉軍に参加し、台湾代表の台北軍と、神宮球場で戦ったこともある。なさけない次第である》

 照れながら、滑稽さを装いながら、自らのスポーツ体験をどこかで自慢したいという稚気のようなものがほの見える。たぶん、このようなところに、批評の世界で神格化される以前の小林秀雄がいるのだろう。いや、こういう稚気の存在が神格化される際の不可欠の要素だったかもしれない。

 友人だった石丸重治の回想に「小林秀雄は割合に運動が上手で」という言葉がある。もしこれを「割合に」という部分に重点を置いて理解すれば、小林秀雄には必ずしも抜群の運動能力があったわけではないということになる。だが、小林秀雄には自身の運動能力、ないしは体力というものに対する強い自信があったように思われる。もしかしたら、批評における香具師の啖呵に似た断定的な口調を支えたのは、案外にそうした肉体的なものにおける自信だったのではないかという気がする。

 実は、これとほとんど同じトーンの文章が、同じ東京生まれの文士である吉行淳之介の、「桜の花がきれいだよ」というエッセイの中にもある。

 《車の運転をはじめてから、十二年経つ。およそ運動神経と無縁な人間とおもわれているらしく、私の動かしている車に乗っているくせに、「信じられない」と言う人物が多い。旧制高校のときには、卓球部に入って、一年生のときレギュラーになった。東日本インターハイで団体優勝をしたとき、ウイニング・ボールのスマッシュをきめた選手は、私である》

 どちらにも、都会で生まれ育った者に独特の、ソフィスティケートされた自意識とでもいえるようなものの存在がうかがえ、逆にその部分に他の文章には見られない人間味が感じられもする。もちろん、これを単に都会的と言ってしまうと、関西的な都会人の視点からは妙に幼く感じられるかもしれず、そうだとすると、これはやはり「東京に生まれ育った者に独特の」というくらいに止めておくべき性質のものなのかもしれない。

 ところで、小林秀雄にとって「好きだった」というスポーツはどのような意味を持つものだったのか。

 小林秀雄にとってスポーツは、まずなにより「する」ものとして存在していた。

 若いころに野球があったことは「スポーツ」の中で述べられているが、まず中学時代に登山が現れたことが「山」というエッセイに記され、友人と三人で雲取山に行き、あやうく遭難しかけたことが書き留められている。さらに、当時としてはかなり早かったと思われるスキーが登場する。「カヤの平」というエッセイでは、ビギナーの時期に苛酷な山スキーに参加し、その帰途、行方不明者として捜索されてしまった失敗談が書かれている。そうした「する」ものとしてのスポーツに対する関心は、やがてゴルフに集中していくようになるが、それについては「ゴルフ随筆」などに面白おかしく書かれることになる。

 これらのエッセイで扱われているスポーツは、「好きだった」という以上のものではない。それらの文章には、スポーツの先達や同行者としての深田久弥や今日出海などが出てくるが、特に文学的な意味のあるものではなく、一種の冒険譚や滑稽譚の域を出ることはない。「する」ものとしてのスポーツを通して、文学的な何かに到達したり、把握したりという気配はうかがえないのだ。

 だが、小林秀雄は、「する」ものとしてのスポーツに関する文章だけでなく、「見る」ものとしてのスポーツに関する文章もいくつか残している。「スポーツ」の中に《スポーツを見世物と見做して昂奮しているファンというもののかもし出す空気は、私はあんまり好きではない》という一節があるが、「見る」ものとしてのスポーツについて書かれた文章の方に、文筆家としての小林秀雄の関心に重なる、より深い省察がちりばめられているように私には思える。

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最終更新:12/6(木) 14:00
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