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なぜ「町田」は神奈川の駅と誤解されやすい?

12/6(木) 5:10配信

東洋経済オンライン

 東京都町田市は多摩エリアの南部に位置し、横浜市や川崎市、相模原市といった神奈川県の3政令指定都市と接する。また、同じ東京都の大都市・八王子市と隣接もしている。鉄道なら横浜線、道路なら国道16号線で八王子にアクセスできるものの、丘陵によって隔てられている。

 都心部から市の玄関口となる町田駅にアクセスするには、新宿駅から小田急線を利用することになる。その場合も、一度は川崎市を通る。こうした地勢的な面から、長らく「町田は神奈川」と揶揄されてきた。

 実際、かつて町田市域が「町」だったときに属していた南多摩郡は、北多摩郡・西多摩郡とともに1893年まで神奈川県に属していた。「町田は神奈川」は、あながち間違いではない。

■町田が東京府に移管された理由

 神奈川県だった町田が、東京府に移管された理由はいくつかある。複数ある理由のうち、決定的だったのが水源問題と自由民権運動への対応だった。

 東京府が誕生する以前、江戸市中の飲用水は玉川上水から供給されていた。1653年に開削工事が始められた玉川上水は、明治になっても帝都・東京に欠かせない水源だった。人が生きるために欠かせない水を供給する玉川上水は、江戸幕府にとって死守しなければならない。まさに、生命線だった。

 明治政府も、玉川上水を厳重に管理した。そうした事情から、玉川上水の水源・流域である多摩は、東京に所属するべきだとの意見が強まり、三多摩は神奈川県から東京府に移管された。南多摩郡に属していた町田も、このときに東京府に属することになる。

 こうした領土問題は、センシティブな問題でもある。“領土”を譲り渡すことは、神奈川県の沽券にもかかわる。本来なら、県知事が三多摩を東京府に移管することなど容認するはずがない。

 しかし、神奈川県知事は水源問題のほかにも、自由民権運動という厄介な問題に悩まされていた。明治期、町田を含む多摩地区は自由民権運動が盛んで、歴代の神奈川県知事は対応に手を焼いた。水源問題で神奈川県から東京府への移管が議論された際、神奈川県の内海忠勝知事があっさりと多摩を手放したのは自由民権運動への対応に苦慮していたからだとも言われている。

 こうして町田は、神奈川県から東京府に移管された。東京府に移管された後も、多摩には八王子・立川という工業化の進展した都市があり、町田は依然として農山村から脱していなかった。町田は横浜から経済・生活・文化で大きな影響を受けていた。外見上こそ東京府に変わったものの、実質は「町田は神奈川」だった。

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