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【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・北の湖敏満 編 「ケガの功名」で「死中に活」を拾った怪童――[その1]

12/7(金) 12:37配信

ベースボール・マガジン社WEB

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

中学生力士のつまずき

 春、といっても、まだ3月の大阪の町を吹き抜ける風は身を切るよりに冷たい。すれ違う人々はみんな、寒そうにコートの襟を立てていたが、やっと頭にチョンマゲが載ったばかり北の湖は、まるで北風に逆らうように着物の裾を蹴散らし、肩を怒らせて歩いていた。

 前の場所、まだ初土俵から丸1年しか経っていないにもかかわらず、北の湖は序二段で7戦全勝と負け知らず。惜しくも千秋楽の優勝決定戦では負けてしまったが、早くも大物の片鱗を垣間見せ、この場所は三段目の西20枚目まで昇進した。

 ところが、今度は一転して連戦連敗。とうとうこの日、前の場所とまったく正反対の7戦全敗が決まってしまったのだ。

 一番一番を見ると、どれも勝機十分の相撲内容ばっかりだったが、この白星と黒星の違いは、まだ14歳、中学2年生の北の湖の自信を木っ端微塵に打ち砕き、天国から地獄に突き落とすのに十分だった。

 恥ずかしさと不甲斐なさでいたたまれなくなり、終盤の熱気に包まれた大阪府立体育会館を飛び出した北の湖の脳裏に、北海道を出るとき、

「いいか、お前は自分から入門したいと言ったんだから、一人前になるまで帰ってくるんじゃないぞ」

 と言った父の勇三の顔が不意に浮かんできた。

 三保ケ関親方(元大関初代増位山)が、

「北海道の壮瞥町に怪物がいる」

 という情報とともに、その怪童の一葉の写真を入手したのは、昭和41年(1966)4月、北の湖が中学に入学した直後のことだった。ただ、その写真は北の湖の1年近く前のもので、身長はまだ160センチ、体重も60キロあまりしかなかった。これでは身体検査の合格ラインに到達していない。このため、わざわざ東京から飛んで来た三保ケ関親方は、改めて北の湖の身長や体重を聞きもせず、

「いいかい。もっと大きくなったら、東京のおじさんの所に来るんだよ。うんと食べて横になると、体はどんどん大きくなるからね」

 と言い置いて帰ってしまった。

 もしこのときの写真が、すでに173センチ、75キロと合格ラインを突破しているものだったら、三保ケ関親方は別のアドバイスをしただろうし、北の湖の力士スタートも、もっと違ったものになっていたに違いない。

 というのも、北の湖はこの三保ケ関親方の指令を忠実に守り、「ただいま」と学校から帰ってくると、カバンを放り出し、

「親方がこうしろ、と言ったんだから」

 とお腹いっぱい食べて一日中寝ている、という生活を実行したのだ。

 おかげで体重はわずか3週間で100キロの大台を突破したが、このおよそ子どもらしからぬ生活に、息子の健康を気遣う両親がたちまち悲鳴をあげたのだった。

 このため、急きょ、三保ケ関親方と連絡が取られ、この年の10月、北の湖は迎えに来た三保ケ関親方とともに上京、部屋の近くの両国中学に転校し、力士としての第一歩を踏み出した。

「初土俵は昭和42年初場所です。当時、中学生力士は公認されていましたからね。そんなに早く親元を離れてつらくなかったか、とよく聞かれるけど、オレはこの世界の水がよほど性に合っていたのか、一度も田舎に帰りたい、と思ったことはなかったですね。なにしろ入門してすぐ10キロ太りましたから。8人兄弟の7番目で、両親も手放しやすかったんじゃないかなあ。入門したとき、中学生力士は全部で3人いましたよ。みんな途中で辞めちゃいましたけど」

 と、それから18年後の昭和60年初場所2日目、多賀竜に敗れて引退を表明、数々の功績を認められて一代年寄「北の湖」を許された北の湖親方は、自分の新弟子時代を振り返った。

 そんな水を得た魚のように、生き生きとこの大相撲界を泳ぎ回っていた北の湖が、初めて味わった勝負の世界の厳しさが、この7連勝7連敗だった。

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