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「し、知らなかった、なんですって!?」――鴻巣友季子『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』

2018/12/31(月) 8:00配信

Book Bang

 翻訳家というのは、すごい仕事だと常々思っている。

 小説家は、効果的な文体や語彙を選んで、自分の書く小説に命を吹き込もうとするものだ。完璧なプロットを仕上げてから執筆にかかる作家もある。でも、どんな作家でもある程度は、勘や直感を頼りに書いているものではないかと思う。

 でも、翻訳家は違う。他人の文章を、己の勘で訳すわけにはいかない。どういう効果を狙ってその文体や語彙、そしてプロットを使ったのかはもとより、勘を頼りに書き上げた文章まで、その勘のよって来たるところを探り出して解明し、日本語に移し替える。訳す、というのはどうも、そういう作業らしい。「腑分け」という言葉が頭に浮かぶ。

 本書は当代きっての翻訳家による見事なメス捌きを、手術室の上から眺めることができる、そんな印象の一冊だ。

 とはいえ、無菌でひんやりした器具類の音が静謐な手術室に響くのではなく、そこではわくわくするようなドラマが、スリリングな考察が、ときに活きのいいユーモアとともに展開されている。

 例えば、冒頭のスカーレット・オハラの外見。映画と違って小説では、いわゆる美人さんではない。そのくらいのことは、読者も小説の一行目を読んで知るのだけれど、実際、どういう容姿だったかまでは、さほど気にせず読んでいるのではないだろうか。

「背は低めで、吊り目で、スクエア・ジョー、首は猪首気味で(ふっくらし)、腕はむっちりしていて、バストは年齢にしては並外れて大きいが、ウエストは恐ろしく細く、脚が美しい。」

 これは翻訳家がまとめてくれたスカーレットの容姿だが(スクエア・ジョーは、エラ張りっぽい顎のことだそう)、どちらかというとジョディ・フォスターのようなタイプをイメージさせるものではないか。そして、実際、スカーレットのコワモテぶりには、ヴィヴィアン・リーよりジョディ・フォスターのほうが、合ってるんじゃないだろうか(ジョディだとちょっと聡明すぎる感じもするが)。少なくとも作家は、ああいう雰囲気の外見を主人公に選んでいるのだ。

 そして文体。これに関しては、やや挑発的ともとれるこんな文章に驚かされる。

「本作の文体は何に似ているかと問われれば、わたしは「ミッチェルと同時代の作家であれば、ある意味ではヴァージニア・ウルフ、時代をさかのぼれば、フローベールの『ボヴァリー夫人』ではないかと思う」と答えるだろう。」

「ミッチェルの文体には、語り手からある人物の内面へ、また別の人物の内面へと、視点のさり気なく微妙な移動があり、それに伴う声の“濃度”のきめ細かい変化、そして、間接話法から、自由間接話法、自由直接話法、直接話法に至るまでに、何段階ものグラデーションが存在している。」

 のだという。

 翻訳する人間が嫌でも気づかざるを得ない文体上の工夫は、読み手にはほとんど意識されずに来た。それは、「技法」や「文体」のことなど気にせず読んでほしいという作者の希望でもあり、同時代の先進的な手法も含め、あらゆる「技法」を、小説のおもしろさ、読むための推進力に奉仕させた作家の到達点であったというのが、とても興味深い。

 いくつも読みどころはあるのだが、やはり注目したいのは「メラニー」だろうか。

 ドクターストップがかかっているにもかかわらず、お堅いメラニーが、いかにして、そして誰の子供を妊娠したかに関する考察には、唸らされた。こう書くと、ややワイドショー的なトピックに聞こえるだろうけれども、アシュリをめぐる二人の女の三角関係(あるいはレットも含めた四角関係? )の物語とも読める小説のクライマックスは、メラニーが二度目の子供を妊娠し、そのせいで命を落とす場面だ。それまで長い、長い小説の中で緊張感を持って保たれてきた人物関係図が、ここでがらりと一変する。あの日、あの夜、いや、あの夜に至るまでの間、彼らに何があったのか! さあ、みなさん、もう一度読み直して、考えたくなるでしょう? 

 笑ったのは、「この主人公はいつも、いつも、「し、知らなかった、なんですって!?」と驚いている」という話。たしかに、冒頭からして彼女以外のすべての人にとって自明なアシュリとメラニーの婚約が、寝耳に水だったというところから始まる小説の中、何度スカーレットが「えっ?」と驚くかを数えるだけでも楽しそうだ。本書を案内役に、もう一度大作の迷宮に入り込みたくなる。

[レビュアー]中島京子(作家)
なかじま・きょうこ

新潮社 波 2019年1月号 掲載

新潮社

最終更新:2018/12/31(月) 8:00
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