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中国の「監視社会化」を考える(3)──市民社会とテクノロジー

1/11(金) 20:00配信

ニューズウィーク日本版

<倫理学の有名な思考実験に、一人の命を犠牲にすれば5人の命が救える場合はどうするか、という問いがある。直感的な道徳感情と合理的な判断に基づく功利主義とのジレンマだ。中国のような全体主義国やAIのような合理マシンの台頭は、市民社会をどう変えかねないのか>

第3回:「道具的合理性」に基づく統治をどう制御するか

*第1回: 現代中国と「市民社会」
*第2回: テクノロジーが変える中国社会

ウイグル弾圧の「刑務所国家」中国で大儲けする監視カメラメーカー

■功利主義と監視社会

中国社会といえば、アグレッシブで、決まりがあってもみんな守らないで自分の解釈で行動する、そんな「民間」のエネルギーにあふれている社会だ、というイメージがあったのが、統治のための様々なテクノロジーや、「向社会的行動」に対する動機付けを提供する信用スコアなどのレイティングシステムの浸透によって、特に大都市では「行儀がよくて予測可能な社会」になりつつあるのではないか──前回の連載で、以上のようなことを述べました。

もちろん、こうした現状認識への異論もありうるでしょう。ですが、ここでは上記のような中国社会の変化が実際に起きていることを認めたうえで、そういった「(広い意味での)監視を通じた社会秩序の実現」という現象について、その意味を考えてみたいと思います。 

まず、こういった動きを基本的には肯定する、そこに裏付けを与えるような思想について検討しましょう。監視社会を肯定するような思想なんて存在するのか?と思われたかもしれません。ここで想定しているのは私たちにとって比較的身近な考え方、すなわち「功利主義」です。この功利主義の考え方を推し進めていくと、究極的には監視社会を肯定せざるを得ないところに行きつくのではないか、という話をしたいと思います。

さて、よく知られているように、功利主義の主張のコアの部分は、1.帰結主義、2.幸福(厚生)主義、3.集計主義という3つの要素に帰着します。1.の帰結主義は、ある行為の(道徳的)「正しさ」は、その行為選択の結果生じる事態の良し悪しのみによって決まる、という考え方です。2.の幸福主義は、道徳的な善悪は社会を構成する一人ひとりの個人が感じる主観的幸福(厚生)のみによって決まり、それ以外の要素は本質的ではない、とする考え方のことです。そして3.の集計主義は、社会状態の良し悪しや行為選択の(道徳的)正しさは、社会を構成する一人ひとりの個人が感じる幸福の総量によって決まる、という考え方です。

では、なぜこれが監視社会を肯定する思想になるのでしょうか。統治思想としての功利主義を再評価する法哲学者の安藤馨さんの言葉を借りれば、それは「功利主義によれば諸個人の自由や自立といったものは統治者が何を為すべきかに於いては本質的に無関係」であり、そのため「そうした方が結局は幸福の総計の最大化に資すると思うならば、諸個人の自由や自立を侵害するような統治や立法をよしとするだろう」からです(安藤2010:74頁)。

安藤さんはまた、監視テクノロジーの進歩により、例えば犯罪や暴力的行為の予防的措置が可能になり、それが人々の身体の拘束の機会をむしろ減らす可能性があることを挙げて、このように指摘しています。「仮に監視技術が発達し、当該の行為に及ぶ前に(中略)それを制止できるようになれば、物理的に刑務所やその他の施設に閉じ込めておくことで事後規制を実行するという方法を採る必要はなくなる。監視による事前規制は彼らの自由を大幅に回復し、厚生の増大に資するに違いない。監視こそがむしろ彼らを自由にする(同89頁)。

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