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公立学校教師「残業代ゼロ」の根拠になっている法はめちゃくちゃだ!

1/25(金) 8:30配信

教員養成セミナー

市民社会を成熟させる「主権者教育」とは?

■ 未成熟な日本の市民社会
 「18 歳選挙権」の実現に伴って、「主権者教育」が大きな注目を集めています。すでに多くの中学・高校等では、模擬投票を行ったり、現実社会のさまざまな場で起こる対立を解消するためのワークショップを開催したり、政治参加をするとはどういうことかを学んだりしています。

 政治教育は、長らく日本の学校現場においてはある種のタブーとされてきた感があります。冷戦期における「保守」と「革新」、いわゆる右派と左派の対立を背景に、日本では、教師に政治的中立が厳しく求められ、そのため学校内での政治的発言はタブー視されてきたのです。要するに、教師が左翼的な思想教育をすることを、「国」は長らく警戒していたのです。

 でも、冷戦が終結してはや四半世紀。今では、日本人の政治的リテラシーがあまりに欠如していることが、大きな問題になっています。単に、若者が政治に興味がないとか、選挙に行かないとかいうだけの話ではありません。そもそも、この社会は私たち市民一人一人の意思によって作り上げていくものなのだという意識それ自体が、私たち日本人にはかなり欠如しているのではないかというのです。


■ ルールは作り合うものなのに ―子どもを「内申」で支配してきた学校教育
 以前のこのコーナーにも書きましたが、その一つの大きな理由は、まさに学校教育にこそあるのではないかと、私は密かに考えています。

 学校が政治教育を過度に避けてきたというのも、もちろんあります。でもそれ以上に、私は、多くの学校が、子どもたちにルールをただ与えるだけの場所になっていて、子どもたち自身がルールを作り合い、学校を作り合う経験を、十分に整えてこなかったことこそが最大の問題だと考えています。ルールは自分たちで作るもの、学校は自分たちで作るもの、という意識を持たずに成長した若者たち、大人たちが、社会は自分たちの手で作るもの、という意識をなかなか持つことができないのは当たり前の話です。

 1970年代から80年代にかけては、「校内暴力」が大きな社会問題でした。尾崎豊が歌ったように、学校の窓ガラスを壊して回ったり、盗んだバイクで走り出したりといったことは、さほど珍しいことではありませんでした。もちろん、違法行為は許されることではありませんが、当時は、学校や社会のルールそれ自体を問い直す機運が、全体的にまだあったと言っていいかもしれません。

 ところが90年代になると、学校教育界に「関心・意欲・態度」という新しい評価観点が登場します。子どもたちの「関心・意欲・態度」が、評定に取り入れられることになったのです。その結果、テストで100点を取ったとしても、意欲が見られなかったり態度が悪かったりすれば、評定を下げられることさえ起こることになりました。いわゆる「内申による支配」の深刻化です。

 そんな中、子どもたちの多くは、とりあえずルールに従ってやりすごす、そもそもそうした環境に関心を持たない、といった傾向を募らせていきました。ある意味では、それが最も賢明な選択だからです。わざわざ窓ガラスを壊して回るなんて、愚かな行為だと考えられるようになったのです。

 ブラック校則が話題になりましたが、今多くの学校は、持ち物から下着の色の指定にいたるまで、子どもたちをさまざまなルールでがんじがらめにしています。そして、それを見直す機会さえ与えないのです。にもかかわらず、2001年から2013年までの間に、「校則を守るのは当然」と考える高校生は、何と倍以上になっているそうです(荻上チキ・内田良『ブラック校則』)。

 これでは「主権者教育」も絵に描いた餅になりかねません。ルールは上から与えられるもの、とりあえず我慢してやりすごすもの。学校生活を通してそんな思いを募らせてきた子どもたちに、ルールは本当は作り合うものであり、おかしなものに対しては、我慢するだけでなく、むしろ変えていくよう働きかけることができるのだということを、どうやって肌で理解してもらうことができるでしょうか。

 
■ 先生も、もっと声を上げていい
 公立学校の教師は、「残業代ゼロ」であることを読者の皆さんはご存知だと思います。
 その根拠になっているのが、いわゆる「給特法」(「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」)という法律です。

 詳細は省きますが、この法律は、哲学的に言っても憲法学的に言っても、めちゃくちゃな法律だと私は考えています。そのため、この法律を改正するよう、その論拠のおかしさを論証したり(内田良・苫野一徳『みらいの教育―学校教育をブラックからワクワクへ変える』)、署名活動に加わったりしています。

 でも、多くの先生方が、そもそもこの法律を知らないのです。この法律のために、一人月に十万円分もの「タダ働き」をさせられていることをご存知ないのです。そして、知っていたとしても、法律でそう決まっているんだから仕方ないと思われている方も、決して少なくないのです。

 先生は、もっとお金にがめつくなれなどと言っているわけでは決してありません。そうではなくて、この法律を改正し、残業代をちゃんと払うということが決まれば、使用者(教育委員会・管理職)は、残業ができるだけなくなるよう努め、先生が本当にやるべき仕事に集中できるようになるはずだ、そうするべきだと私は考えているのです。

 ともあれいずれにせよ、法律を変えるということを含めて、この社会を作るのは私たち市民一人一人です。それがこの市民社会の原理原則です。

 成熟した市民社会を作るためにも、学校の先生方にももっとそのことを自覚していただきたいし、そして子どもたちには、もっともっと、学校を共に作り合う経験、ルールを作り合う経験を、たっぷり整えてあげてほしい。そう、強く願っています。


苫野一徳
熊本大学教育学部准教授
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(教育学)。著書『はじめての哲学的思考』『教育の力』など多数。

※『月刊教員養成セミナー 2019年2月号』
「哲学する教育学者 苫野一徳の教育探求コラム ―教師の卵に考えて欲しいこと」』より

最終更新:1/25(金) 8:30
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