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天下人の「人を見抜く方法」~協同精神を重んじた豊臣秀吉

2/4(月) 12:12配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

信長の「旧価値観の破壊」の後を受けて、「新価値社会の建設」を行なおうとした秀吉は、当然、
「建設的能力を持つ人間」
を求めた。それがかれの、
「人を見抜く目のモノサシ」
である。

美濃国はかつて国盗りといわれた斎藤道三が支配していたが、道三は息子に殺された。しかし道三の娘が信長の妻になっていたので、道三は死ぬ直前に、
「美濃国はあなたに差し上げる」
と信長に遺言した。そこで信長は、
「舅の敵をとる」
という大義名分を立てて美濃国に攻めこみ、斎藤氏を滅ぼした。この美濃国を攻略するときに、墨俣というところに城を築いた。昔の墨俣は、木曾川と長良川や揖斐川が合流する地点である。また中小の河川も流れこむので、辺り一帯が大きな洲のようになっていた。湿地帯だ。したがって城を築くことは難しい。

このとき城を築くことを命ぜられたのが、まだ木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉である。秀吉は、城の工事を命ぜられると、木曾川の流域一帯を歩きまわった。
かれは、密かに、
(織田家に仕えてきた技術者では、到底城はできない)
と思っていた。

現在の江南市地域で、秀吉は蜂須賀小六という豪族に出会った。
蜂須賀小六と言えば、野盗の親分で、秀吉と遭遇したのは矢作川(現在の西尾市辺り)に架かった橋の上だったという話もある。しかし、当時この川に橋はなく、同時にまた蜂須賀小六はこの地域の人物ではない。
愛知県北部の木曾川流域近くにある江南市の出身だ。現在も、小六の屋敷跡やかれがいろいろと寄進をした神社などが残されている。したがって蜂須賀小六の拠点は木曾川の左岸である。

それに小六は野盗ではない。立派な技術者だった。この地域には水害から集落を守るために輪中というのがつくられた。集落の周りを高い堤(輪)で囲み水を防ぐ。中に盛り土をして住宅を建てる。そして農耕具などの共同用具を保管する倉庫は水屋といって、さらに高いところに建てられた。
秀吉が目をつけたのはこの輪中である。輪中に目をつけたというよりも、
「輪中をつくれる技術者なら、あの大湿地帯である墨俣でも城ができるだろう」
と考えたのだ。

訪ね歩いて、秀吉は蜂須賀小六という地域の豪族に会った。
思ったとおり蜂須賀小六は、輪中をつくることに長けていた。しかしときには木曾川を往来する舟から、通行税をとることもあったらしい。このへんが、
「蜂須賀小六たちは野盗だ」
と言われた所以だろう。

話をすると、小六は秀吉の申し出を興味深く聞いた。しかし秀吉が、
「そういうわけで、小六殿を湿地帯に城をつくる責任者として信長さまが雇いたいとおっしゃっている」
と言うと、首を横に振った。秀吉が、
「いやですか?」
と聞くと、小六はこう答えた。
「わたし一人ではダメだ。部下も全員雇ってほしい」
「え?」
秀吉はびっくりした。
「小六殿の部下も全員織田家の家来にしろと言うのですか」
「そうだ」
小六はその理由を説明した。
「われわれ技術者は、集団で仕事をしている。わたし一人では墨俣に城などできない。城をつくるにはいろいろな分担がある。各分担者が連携して、はじめて仕事が可能になる。したがって、わたし一人が雇われても、とても城はできない。雇ってくれるのなら、全員まとめて雇ってほしい」

秀吉はしばし考えた。それは、小六の申し出が理不尽だと思ったわけではない。小六が言った、
「城をつくるという仕事は、みんなが分担して、それがまとまったときにはじめて事業が成り立つのだ」
という言い方である。これはいまで言えば、
「仕事はチームワークでするものだ」
という考え方を示す。戦国時代の武士にはチームワークなどさほど必要ない。
「われこそは」
という個人単位の武技を競い合って生きている。それを小六は、
「仕事は集団でするものだ」
とはっきり言いきったのである。秀吉は感動した。そして、
(これからの事業は、集団で行なうほうが能率が上がる)
と感じた。

「一応、主人と相談します」
と言って秀吉は城に戻り、このことを信長に報告した。信長は怒った。
「バカなことを言うな。野盗をそっくり雇うなどできることではない。小六が嫌なら、他の人間を探せ」
とにべもなかった。しかし秀吉は懇々と信長に説いた。
「殿の事業を完成させるには、これからはやはり個人が武技を競うのではなく、集団で仕事をする必要があります。墨俣城の築城はその実験です。蜂須賀小六は立派にやり遂げるはずです。どうか、小六だけでなく小六の部下もまとめて雇ってください」
珍しく強引な秀吉の頼みに、信長はたじろいだ。しかし、秀吉にも考えのあることがよくわかったので、信長はついに承知した。

蜂須賀小六は感謝した。そして秀吉の期待に応えて見事に洲に城をつくった。このとき秀吉は、小六の連れてきた部下を三つの隊に分けた。一つの隊は城づくりに励ませる。一つの隊は敵に備えさせる。そして一つの隊は休憩するという仕組みだった。小六は感心した。
「おぬしは、組織づくりの名人だ。わたしにもこれほどの知恵はなかった」
小六は、秀吉が信長に交渉して自分の部下全員を正式な家臣にしてくれたので、感謝していた。
(若いが、この木下藤吉郎はきっと伸びる。忠節を尽くそう)
と思った。以後の小六は、まるで秀吉の腰巾着のように忠誠を尽くしとおす。その息子は、阿波徳島で二十五万石の大名に取り立てられた。

このとき、秀吉の「人を見抜く目」は、単に小六の技術だけを重要視したわけではない。技術者は律儀なところがある。小六が、
「自分の部下もまとめて家来にしてほしい」
と言ったのは、仕事は組織でするものだが、そのトップとして部下には深い愛情を持っているということを示していた。それが秀吉の胸を打ったのだ。小六のほうもまた、自分の願いを信長に強引に聞き届けさせた秀吉の誠意に感動していた。秀吉の建設事業の底には、こういう、
「人間と人間の真心の交流」
があったのである。

結局、織田信長は明智光秀に殺されたが、秀吉はのちに側近にこう語っている。
「信長公は勇将ではあったが、良将ではない。いったん部下に憎しみを持つと、その憎しみは長く続いた。そのために、部下のほうも信長公をオオカミのように恐れていた。オオカミは結局は殺される」
意味の深い言葉だ。あれほど尊敬した信長に対しても、秀吉はこういうクールな目を持って眺めていたのである。ニコポン(ニッコリ笑って部下の肩をポンと叩き、しっかり頼むよというやり方)とほうびのバラ撒きが得意だと言われた秀吉にも、こういう冷たい“人を見抜く目“があった。

※本稿は、童門冬二著『信長・秀吉・家康の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

童門冬ニ(作家)

最終更新:2/4(月) 12:12
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