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今の新日本隆盛を半世紀前に先取り。ジャイアント馬場を正当に評価する。

2/6(水) 10:01配信

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 去る1月31日、アントニオ猪木と並ぶ昭和の日本プロレス界の象徴であったジャイアント馬場が亡くなって、丸20年を迎えた。

 生きていれば満81歳。馬場は生涯現役のまま亡くなったが、いまはもうその現役時代を知らないファンも数多く存在する。

 それでも、さすがは昭和の大スター。この没20年に合わせて、年末年始には渋谷東急本店で『ジャイアント馬場展』が開かれ、合計1万人以上が来場。CSの日テレG+ではジャイアント馬場名勝負集が連日放送され、2月19日には両国国技館で『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』の開催が決定している。

 そこには馬場の遺志を受け継いだ形の全日本プロレスをはじめ、新日本プロレス、プロレスリング・ノア、大日本プロレス、WRESTLE-1など主要団体の選手たちが参加。“オールスター戦”的な形で行われることが発表されている。

馬場と猪木のピークにズレが。

 この流れを受けて、にわかに高まってきたのがプロレスラー、ジャイアント馬場の再評価だ。

 馬場は日本プロレス史を語る上で欠かすことのできない超大物であり、プロレス界における馬場と猪木といえば、プロ野球で言えば王・長嶋的存在。しかし、馬場の生前。とくに現役時代の後半は、“プロレスラー・ジャイアント馬場”が正当に評価されていたとは言い難い状況があった。

 その大きな理由の1つは、馬場と猪木のレスラーとしてのピークの時期が、数年ズレていたことが挙げられるだろう。

 馬場の本当の全盛期は日本プロレスの絶対的なエースであった'60年代後半であり、ライバル猪木と、それぞれ全日本、新日本の総帥としてもっとも比較された'70年代は、5歳年下の猪木が全盛期を迎えたのに対し、馬場はすでに全盛期を半ば終えてしまっていたのだ。

'60年代の“失われた栄光”。

 またこの時期、猪木はことあるごとに馬場との対戦をアピール。対戦に応じようとしない馬場は、「猪木から逃げている」というイメージを作られた。年齢とともに身体の線も細くなり、'70年代から'80年代にかけては、笑いのネタにされたり、試合中に「馬場、引退しろ!」と野次られることも少なくなかった。

 日本人で唯一、“世界最高峰”NWA世界ヘビー級王座を三度獲得したという実績はあるものの、いまの50代以下のプロレスファンで、馬場に対して「強い」というイメージを持っている人は、けっして多くはないだろう。

 三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太らが激闘を展開した'90年代の“四天王プロレス”時代になると、全日本プロレスの総帥であるジャイアント馬場は、「馬場さん」とファンから“さん”付けで呼ばれ、敬愛される存在ではあったが、それは“プロレス界の天皇”的な敬われ方であり、プロレスラーとしての評価とはまた少し違っていた。

 '60年代の馬場の栄光は、'70年代以降の猪木の活躍によって意図的に薄められ、ファン層の入れ替わりとともに、半ば“失われた栄光”となっていたのだ。

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最終更新:2/6(水) 10:01
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