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豊臣秀長~秀吉を輔佐し続けた名脇役

2/25(月) 12:15配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

秀長は兄・秀吉のサーモスタット

電気製品にサーモスタットというのが取りつけられている。「自動制御装置」と訳される。電子工学でいう、「出力の一部を入力に変えて、出力をセーブ(制御)する」という考え方だ。
電気冷蔵庫は人間がいないときでも作動しつづける。しかし冷えすぎた場合には、サーモスタットが自動的に作動し、冷やすのをやめる。中が暖かくなると、再びスイッチが入って冷やしはじめる。この作業を行なうのがサーモスタットだ。
豊臣秀吉の弟秀長は、まさしく秀吉のこのサーモスタットではなかっただろうか。
「豊臣秀長は秀吉の名補佐役であった」
とよく言われる。とくにその「二番手主義」が評価され、人柄の温かさとともに「秀吉を脇から支えた」と言われる。そういう見方もあるだろう。しかし筆者は、むしろ秀長はもっと積極的に、秀吉の心身の一部と化すまで、秀吉自身のサーモスタットになっていたと思う。
九州の南に拠点を構える島津氏が、九州全土の制覇を目指して北上したことがある。追いまくられたのが大友宗麟だ。宗麟は悲鳴を上げ、秀吉に援軍を求めた。このとき大坂城にやってきた宗麟を懇切丁寧に案内したのが秀長だ。宗麟ははじめて大坂城を訪れたが、このとき一つの印象を持った。かれの有名な言葉だ。
「豊臣家では、表のことはすべて弟の秀長が支配し、内々のことは千利休という茶頭が取り仕切っている」
当時の秀長と千利休の権勢のあり方を示している。
秀長は天正19(1591)年1月22日に死去する。51歳だった。
ところがその直後の2月に、千利休が秀吉によって切腹を命ぜられる。
「茶道という芸術分野での権勢に馴れ、奢り高ぶる行為が多い」
というのがその理由だ。具体的には、京都の大徳寺の山門に自分の木像を安置して、下を通る者の頭を踏みつけたのがけしからんという理由だ。秀吉も、この山門の下を通るときは利休に頭を踏みつけられることになる。秀吉は怒り、切腹した利休の遺体を京都の町にさらした上、大徳寺の山門から木像を運び出して、この木像に利休の遺体を踏みつけさせたという。
これは、すなわち秀吉の頭の中からサーモスタットが取り去られたことを物語る。この秀吉の頭の中におけるサーモスタットとは、とりもなおさず豊臣秀長という弟の存在であった。

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