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豊臣秀長~秀吉を輔佐し続けた名脇役

2/25(月) 12:15配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

名補佐役、名参謀を超えて

戦国時代には、名補佐役とか名参謀とかという存在がいろいろと語られる。そしてかれらの役割は、「トップの理念追求過程で、その能力の足りない部分を補う」ことだとされた。
名参謀、名軍師といわれた存在は数多くいる。
しかし秀長の場合は、それよりも一歩前に出ていた。というのは、秀長は秀吉の実弟であり、子供のときからともに育った肉親だったからだ(秀長はいままで秀吉の異父弟だと言われてきたが、最近の研究では父親も秀吉と同じだという説が定着しはじめている)。
兄と弟の関係で言えば、名補佐役としては武田信繁がいる。武田信玄の実弟だ。信玄の父信虎は、長男の信玄が嫌いだった。なぜか弟の信繁を可愛がり、
「信繁に自分の跡を継がせよう」
とはっきり態度に示した。しかし信繁は利口者で、そんな父親の態度にもかかわらず兄にはまめまめしく仕えた。信繁だけにくれた珍しい品物や玩具も、貰うとすぐ信繁は兄のところに持っていった。そして成人すると、信玄は父を追放した。が、ふつうの場合、こういうときに、兄は弟を殺す。織田信長や伊達政宗がそのいい例だ。しかし信玄は信繁を殺さなかった。
というのは、信繁のほうが積極的に自分を変えて、信玄に忠節を尽くしていたからだ。信繁が書いた文書に有名な『甲州法度之次第』というのがある。これは、
●自分すなわち武田信繁は、武田信玄公の弟ではない、家臣である
●したがって、信繁家の家族はすべて信玄公に対し、親戚というよりも家臣であるという立場を示さなければならない
●武田家の家臣団も、全員自分にならって、信玄公に忠節を尽くせ
ということを宣言したものである。つまり信繁は、
「自分は信玄の弟ではない、家来だ」
ということを示すことによって、身の安泰を図ったと言ってもいい。さすがの信玄も、この信繁の積極的な献身ぶりにはつけ入る隙がなかったのだ。
この信玄と信繁の関係を豊臣秀長が知っていたかどうかはわからない。しかし秀長は、
「自分は秀吉公との兄弟の関係を大事にして、兄の心身の一部となろう」
と考えた。かれの秀吉に対する補佐ぶりは、秀長という独立した弟が存在するのではなく、むしろ秀吉の心身の一部となって秀吉の行動を助けようという考え方で貫かれる。
秀長は、秀吉が功績を立てた合戦にはほとんど参加している。墨俣城の築城や、稲葉山城の攻略、信長の方針による中国攻略、四国征圧、九州征圧などにはすべて参加している。
参加できなかったのは、秀吉の最後の事業、小田原の北条征圧のときだけだ。このとき秀長はすでに病の床にあった。このため、秀吉の天下平定の実現を見ずに先に死んでしまった。
しかし、具体的な合戦――たとえば中国攻略における諸方面での征圧は、秀長が指揮を執って行なったものだ。四国征圧に至っては、長宗我部氏を降伏させたのは秀長の独力である。この合戦に秀吉は参加していない。降伏式というセレモニーに出席しただけだ。九州征圧も同じだ。実質的に島津氏を屈服させたのは秀長だ。そして最終場面の晴れやかなセレモニーに兄を呼んで、花を持たせたのである。
このように、秀長は単に秀吉の参謀としての仕事をしただけでなく、現場の司令官としての優れた能力を持っていた。つまり秀長にすれば、
「自分が中国方面や四国や九州を平定しているわけではない。兄が平定しているのだ。自分は兄の分身であり、その一部なのだ」
と思うからこそ、かれが存分に能力を発揮することができたのだ。

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最終更新:2/25(月) 12:29
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