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【東日本大震災、医師たちの奮闘】“お荷物病院”を地域密着型に改革して黒字に転換させた外科医が語る3.11 【岩手県陸前高田市 県立高田病院院長 石木幹人医師】

3/6(水) 11:00配信 有料

デイリー新潮

【東日本大震災、医師たちの奮闘】“お荷物病院”を地域密着型に改革して黒字に転換させた外科医が語る3.11 【岩手県陸前高田市 県立高田病院院長 石木幹人医師】

 東日本大震災から今年で8年が経過する。未だあの日の記憶を鮮明に覚えている方は多いだろう。M9という観測史上最大の地震に加え、私たちの想像をはるかに超える大津波。死者、行方不明者合わせて1万8千人を超える未曾有の被害をもたらした大震災だが、そこでは多くの人々が「生きる」ために奮闘したことも忘れてはいけないだろう。命の可能性を信じ続けた医師のドキュメンタリーをシリーズでお届けする。

 第8回は、石木幹人(いしき・みきひと)さん。2011年当時は、岩手県立高田病院院長を務め、県の“お荷物病院”と呼ばれた病院を地域密着型に改革していた。津波で病院は壊滅、自宅も流されて、最愛の家族を失っても患者のために診療を続けてきた。(以下、『救命 東日本大震災、医師たちの奮闘』(海堂尊監修)より抜粋。※肩書・役職・年齢等は2011年の取材時のものです)

 ***

■ビニールのゴミ袋や紙オムツを巻きつけて寒さをしのぐ
 最初に地震が発生したのは、午後二時四十六分。被災した後に病棟で見つけた時計はどれも三時三十二分で止まっていました。高田病院が波に沈んだのは、まさにその瞬間なのでしょう。津波が来るのが見えてから、病院へ到達するまでには五分ほど。わずか数分の間の惨禍だったのです。

 津波が引いた時点で、私たちはまず生存者を確認しました。五十一人の患者さんがいて、津波のために亡くなった人が十二人。三十九人が生存していました。また津波が来ると危ないので、患者さんの安全を確保しなければなりません。職員たちが背中におぶったり、寝たままシーツに載せて四、五人で運んだりと、とにかく手分けをして屋上まで避難させました。

 吹きさらしの屋上は、寒さもいっそう厳しかった。ボイラー室など風を防げる場所が二カ所あったので、患者さんを優先的に入れて、一般の人と職員はその外にいるようにしました。

 屋上に避難したのは百六十人ほど。職員は半そでの白衣という薄着で、中にはびしょびしょに濡(ぬ)れた人たちもいたので、外に出しておくのは忍びないような状態でした。町からの避難者の中にはちゃんと防寒具を着て逃げてきた人も多かったので、その人たちが外にいるような配慮も自然にできていました。

 患者さんたちはびしょ濡れの状態で屋上へ上がったので、急いで着替えをさせなければなりません。看護師たちは四階の病棟へ戻って、乾いている衣類やオムツなどを探し、濡れた人たちを着替えさせていきます。夜になる前にそうした作業を済ませ、懐中電灯や電池、タオルや毛布など、使えるものはとにかく屋上へ上げるよう指示をしました。

 ひと通り作業が終わり、ようやく落ち着いたところで、屋上からゆっくり辺りを見回しました。暮れゆくなかで、高田の街はすっかり湖に沈んだように見え、「これはすごいことが起こったのだ」とあらためて実感しました。海水はまだ渦巻いていて、湾の方へ引いたり、また戻ってきたり。それを見ていたら、もはや病院内に戻ることは危険だろうと判断したのです。 本文:21,959文字 写真:13枚 ...

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著者 (インタビュー・構成 歌代幸子)

最終更新:3/6(水) 11:00
記事提供期間:2019/3/6(水)~11/1(金)
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