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日本人は何を信じてきたのか:青森の“キリストの墓”が意味するもの

3/7(木) 15:04配信

nippon.com

墓を受け継いできた祖先を信じる村人たち

筆者が調べた限り、この墓を本物だと信じる村人はいない。むしろ、外からやってくる観光客の中に少数ながら墓を本物だと信じている人がいる。それでは、村人にとってこの墓は、年に1度のイベントを行うための観光資源に過ぎないのだろうか。

キリスト祭を司式する神主によれば、「埋葬されているのが誰であれ慰霊は大切だ。そして万が一、墓の主がキリストであっても、八百万(やおろず)の神を祀(まつ)る神道にとって何ら問題ない」という。祭りのスタッフとして働く村職員も、葬られている人は村の先祖であり、古くからある墓の供養を絶えさせてはならないと語る。

村人たちは“キリストの墓”ではなく、墓を受け継いできた自分たちの先祖を信じている。巨麿の発見以前にこの墓がある場所が墓所舘と呼ばれていたことも、二つの塚が元々は誰か村に関わりの深い人の墓であることを示唆している。現在の村人たちは、墓の保存と供養を続けてきた祖先の営みを大切に感じているのである。墓の中身は問題ではない。教義や信仰ではなく、自分たちが所属するコミュニティーと、そのコミュニティーが続けてきた実践が大切にされているのだ。

信じるよりも実践する日本の宗教文化

こうした状況は、実は日本の宗教全般にもあてはまる。初詣に神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は仏式で行う。家には仏壇も神棚もある。日本に広く見られる宗教の混交は、しばしば日本人の宗教的な無節操や実質的な無神論として語られる。とりわけ葬式は、信仰に基づかない形骸化したイベントとして批判される。

しかし、そもそも宗教は「信じるもの」なのか。実は「体系化された教義を信じる」という宗教イメージは、欧米のプロテスタントをモデルにしたものである。神道の教義といっても曖昧だし、日本仏教は釈迦が説いた仏教とは異なる。世俗との交わりを絶って解脱を目指す釈迦の教えに、先祖や墓が入り込む余地はない。

だからと言って、日本の宗教が偽物なわけではない。日本では、宗教は信じるものではなく、自分が所属するコミュニティーと不可分であり、だからこそ「実践するもの」なのだ。天照大御神(あまてらすおおみかみ)や浄土や地獄の実在を固く信じているから初詣や葬式を行うのではない。自分が所属するコミュニティーで、そうした実践が受け継がれてきたからこそ行うのだ。新郷村の“キリストの墓”は明らかに偽物であるからこそ、「信じる・信じない」という枠組みがそもそも日本の宗教風土になじまないことを教えてくれるのである。

【Profile】

岡本 亮輔 OKAMOTO Ryosuke
北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院准教授。1979年、東京生まれ。2010年、筑波大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は観光社会学、宗教学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学―巡礼ツーリズムが生み出す共同性』(春風社、2012年)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中央公論新社、2015年)、『江戸東京の聖地を歩く』(筑摩書房、2017年)、Pilgrimages in the Secular Age: From El Camino to Anime(JPIC、2019)など。

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最終更新:3/7(木) 15:04
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