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【東日本大震災、医師たちの奮闘】「家も職場も全壊。でも患者さんと話すと自分まで癒される」人口4500人の地区でただひとりの勤務医として孤軍奮闘した内科医が語る3.11 【岩手県宮古市 国民健康保険田老診療所所長 黒田仁医師】

3/7(木) 11:00配信 有料

デイリー新潮

写真:黒田仁医師提供

 東日本大震災から今年で8年が経過する。未だあの日の記憶を鮮明に覚えている方は多いだろう。M9という観測史上最大の地震に加え、私たちの想像をはるかに超える大津波。死者、行方不明者合わせて1万8千人を超える未曾有の被害をもたらした大震災だが、そこでは多くの人々が「生きる」ために奮闘したことも忘れてはいけないだろう。命の可能性を信じ続けた医師のドキュメンタリーをシリーズでお届けする。

 第9回は、黒田仁(くろだ・ひとし)さん。2011年当時は、国民健康保険田老診療所の所長を務め、人口約4500人の田老地区におけるただ一人の勤務医として、地域医療を支えてきた。震災当日から、津波の被害で孤立した田老地区の避難所を回り、あらゆる医療行為に勤しんだ。(以下、『救命 東日本大震災、医師たちの奮闘』(海堂尊監修)より抜粋。※肩書・役職・年齢等は2011年の取材時のものです)

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■田老の防潮堤が果たしてくれた役割
 僕は避難直後から着の身着のままの白衣姿で山の方へ行き、「怪我(けが)人はいないですか、具合の悪い人はいないですか」と呼びかけながら歩き回り、足を挫(くじ)いた人を診たりしました。またある女性から「頭から血を流して意識がおかしい男の人がいるから来てほしい」と頼まれました。山腹にあるその人の家へ行くと、その男性は全身びしょ濡れで運ばれたようで、毛布にくるまれて震えています。そこで近くにあった車椅子に載せて、近くの高台の避難小屋へ移しました。その小屋には寝たきりのおばあさんが娘さんに連れられて避難していたので、看護師の一人にその世話を任せて、また次へと移動しました。

 別の集落には右半身が麻痺(まひ)して呂律(ろれつ)のまわらない女性がいるので診てほしいといわれ、三陸鉄道の線路を歩いてトンネルを越えて向かいました。そこの周囲は山火事の危険も迫っていた。これは脳梗塞(こうそく)かもしれないと判断し、役場へ戻って人を集めると、その女性をリアカーに乗せてお寺まで運んだのです。一方、公民館に寝かせていた診療所の入院患者さんたちは、職員や消防団、地域の方々の協力で戸板等に載せて、総合事務所まで避難してもらいました。

 いずれにしても医者は僕一人きりなので、看護師や消防団の手を借りて、総合事務所で救護の指揮を執りました。その合間に他の避難所もまわりましたが、小学校の体育館にはストーブが五、六個しかないため、震えている人が多いようでした。その他、親が迎えに来られない子どもたち、骨折の疑いのある方、お腹(なか)が切迫して張っているという妊婦、夜になっても子どもが寝ないといって困り果てる母親、認知症でうろうろする高齢者……。容態も状況も様々な人がいました。

 そこで、小学校の養護教諭の先生を僕の取り次ぎ係にして、「赤い紙と黄色い紙を用意して下さい」と指示しました。「明日の朝六時に来て、この人は赤、この人は黄色と搬送の優先順位をつけるからね」と伝えたのです。

 お寺でも保健師に同じ指示をして、総合事務所へ戻ったら、役場の幹部数名が奥の部屋で黙ってテレビを見ていた。僕は思わず、「あんたたち、やることがあるでしょう」と怒鳴ってしまいました。「どこの避難所に何人避難していて、病院へ運ばなくてはいけない人が何人いるか、亡(な)くなった人はどれだけいるか。そういう人の数を数えているのか。俺は医者であんたたちに指図する立場じゃないけど、何でこうして怒らなきゃいけないんだ。しっかりしてくれ」と。今は通信手段が途絶えていても、無線で連絡が入ったときに、真っ先に何人運ばなければいけないといった指示が必要になる。残念ながらそうした手配のことも全く考えていないようでした。 本文:23,595文字 写真:4枚

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著者 (インタビュー・構成 歌代幸子)

最終更新:3/11(月) 12:42
記事提供期間:2019/3/7(木)~11/2(土)
デイリー新潮

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