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片腕で岩壁を登る女性クライマー、限界に挑む

3/10(日) 9:32配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

 米国バーモント州の大学を卒業したモーリーン・ベック氏が、趣味でアイスクライミングを始めたのは2009年のこと。あるクライミングのサイトに次のような投稿をした。「こんにちは。私は生まれつき左腕の肘から先がないんだけど、トランゴ社のアイスツールの端を切り落としてネジをつけ、義手にはめ込んでみました。これで登れるかしら」

ギャラリー:片腕で岩壁を登る女性クライマー 写真5点

 すると、クライミング用品メーカーであるトランゴの創業者マルコム・デイリー氏から返信があった。何かあってもトランゴを訴えない限り大丈夫、という回答だった。デイリー氏もまた、右足の膝より先がないクライマーだという。そして、コロラド州で開催されるアイスクライミングイベント「ギンプス・オン・アイス」に、ベック氏を招待した。障害者のためのクライミング振興団体「パラドックス・スポーツ」が立ち上げたイベントで、この年が第2回目の開催だった。

 それまで、ベック氏は他の身体障害者と一緒にアウトドアスポーツをやったことがなかった。メイン州の国立公園に近い小さな町で、アウトドアの好きな家族に囲まれて育った。弟が3人いるが、両親はベック氏だけを特別扱いすることはなかった。ベック氏自身も、左手がないなりに創意工夫を凝らして色々なことに挑戦した。ガムテープでパドルを義手に巻き付けてカヌーを漕いだり、体育の時間に習うスポーツは何でもやりたいと主張した。

 野球をやった時は、グローブを使わず片方の手だけでボールをキャッチし、投げ返した。中学校では、サッカー部の入部テストでゴールキーパーを希望した。コーチやキャンプのカウンセラー、体育教師に「今回は座って見学したほうがいいだろう」と言われれば、決まって「私にできないと思ってるんですか?見ててください」と言い返した。

「ある年の夏休み、親に身体障害児のサマーキャンプに入れられたんです。でもすごく嫌だった。そこにいた誰とも共感できませんでした。自分をかわいそうだと思うことに、たくさんの時間を費やしたように感じました」

 ギンプス・オン・アイスのためにコロラド州へやってきたベック氏は、全く違う世界に出会ったという。そこには、高さ30メートルの氷の壁に挑む十数人の障害者がいた。四肢の一部や歩行機能を失った障害者、そして視力障害者もいた。できない言い訳をする者は誰ひとりとしていない。「彼らは、本物のアスリートでした。全力で壁を登り、夜になると全力でお酒を飲みました。最初から最後までお祭り騒ぎの週末でした。自分と同じ部類の人たちだ、と思いましたね」

 ベック氏は、クライミングの世界に起ころうとしていた変化を目の当たりにしていた。自転車やスキーと同じように、身体に障害がある人もクライミングを習得できるし、それを新たな次元へ引き上げることも可能であるという考えが生まれようとしていたのだ。人生で初めて、ほかの身体障害者とつながりを持ちたいと願ったという。

 それ以来、毎年ギンプス・オン・アイスに参加するようになった。2012年、コロラド州ボルダーへ引っ越したベック氏は、振興団体のパラドックス・スポーツに問い合わせ、地元の身体障害者によるクライミングコミュニティに参加した。そして、仲間とともに定期的にクライミングに通うようになった。

 充実した日々だった。2013年4月、コロラド州ベイルで毎年開催されているゴープロ・マウンテン・ゲームズが、その年初めて障害者クライミング部門を加えることになった。フロリダ州に住むパラクライマー(身体障害者クライマー)のロニー・ディクソン氏の呼びかけで、パラドックスのメンバーも参加することになった。ベック氏も、純粋な興味というよりはむしろ仲間との結束を強めるために参加を決めた。それに、ベイルのコンドミニアムにみんなで泊まるのも楽しそうだった。しかし実際に参加してみると、若い頃の情熱がよみがえってきた。「メダルは取れませんでした。それがちょっと悔しかったんです」

 翌年、アトランタで初めて障害者クライミングの全米大会が開かれた。ベック氏は、女性の上肢障害の部門で唯一の参加者だったため、ただ登っただけで優勝した。理想的な勝ち方ではなかったが、そのおかげでスペインのマドリードで開催される国際スポーツクライミング連盟(IFSC)パラクライミング世界選手権大会への出場権を手に入れ、気分は高揚した。ベック氏にとって初めての海外旅行だった。その世界大会で米国人女性として初めて優勝したが、彼女にとっては何よりも、自分と同じように片腕だけでクライミングに挑戦する女性たちと出会えたことが、貴重な体験となった。

 その後も、ベック氏はリード(ロープ)種目とボルダリング種目で6度の全米入賞を果たしている。2016年には、フランスでの世界大会で再び優勝(IFSCのパラクライミング世界選手権は2年ごとに開催される)。2018年のオーストリア世界大会では3位に入賞した。「優勝は逃したけれど、素晴らしい試合でした。私の部門では参加者数が過去最高を記録して、これまでよりもずっと強くなっていました」

 2020年のIFSCパラクライミング世界選手権は、オリンピックの年にあたるため2019年に繰り上げられる(8月に日本で開催)。ベック氏は、他の目的に集中するため、この大会が最後の参加になるという。まずは、身体障害者の競技人口を爆発的に増やしたいと願う。つい最近、米国の競技クライミングを統括する米国クライミング協会のパラクライミング委員長に就任した。2019年3月30日にオハイオ州コロンバスで開かれる全米大会では、100人以上の参加を見込んでいる。部門の参加者がたったひとりだったという時代から大きく変わったが、まだやるべきことはたくさんあると考えている。

 パラドックス・スポーツのインストラクターとしても活動し、スポーツジムでの障害者アスリートを受け入れやすい環境づくりを目指し、全米でワークショップを開催している。「ある日突然、障害者がクライミングジムへやってきたとき、受付の人が『この人本気?』という目で見るようなことをなくしたいと思います。普通でないことを普通にする。それが当たり前になってしまえば、ちっとも大変なことではなくなるでしょう」。過去1年間で、ベック氏はワークショップを6回開催したが、需要はまだたくさんあるという。パラドックス全体としては、約100回のワークショップを開いている。

 また、障害者クライマーがアウトドアでできると考えられている限界を広げていきたいとも願う。これまで挑戦したルートで最も困難だったのは、難易度を評価するヨセミテ・デシマル・システムで5.12aのグレードがつけられている。障害の有無に関わらず、ほとんどの人にアクセスが困難なレベルだ。上肢に障害を持つ女性でこのグレードを達成したのは、ベック氏が初めてである。その挑戦を記録したドキュメンタリー映画も制作された。

 現在は、そのさらに上を行く5.12cのグレードに挑戦しようとしている。ボルダーにほど近い渓谷にある、アーチエンジェルと呼ばれる高さ30メートルに及ぶ岩壁だ。「著名なロッククライマーのアレックス・ホノルド氏が勧めてくれたんです。『つかむところがないから、片手がなくてもそれほど不利ではない』と言われました」

 ロッククライミングだけでは飽き足らず、昨年8月には初めて山でのクライミングにも挑戦した。障害者クライマーのジム・ユーイング氏と一緒に、カナダのノースウエスト準州にある標高2500メートル級のロータス・フラワー・タワーを登った。2019年秋には、まだ訪れたことのないヨセミテ国立公園で、高さ900メートルもの米国最大の岩壁に挑戦する計画を立てている。障害者クライマーにとって「本当の限界がどこにあるのかわかりません。まだ自分でもそれを見つけたとは思っていません」と語った。

文=Jayme Moye/訳=ルーバー荒井ハンナ

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